東部中学職員、1952
東部中学職員、1953
連合英語祭プログラム
パールバック女史の手紙など
高松宮杯英語弁論大会出場
中学校教員に転出
新制高校で中国語科が廃止されたため、わたしは職場を失いかけましたが、さいわい富山市の中学校で英語科教員として勤務することができました。
英語は専攻外の科目であり、自信もなかったのですが、義務教育の仕上げ段階としての中学校教育はやりがいのある仕事です。 「こどもたちといっしょに勉強して、一人前の教師になりたい」と思いました。
富山市立東部中学校
1949年4月、富山市立東部中学校教諭(英語)を拝命。当時は三代校長熊谷茂(1948~1951)、桐井愛次教頭(1947~1952)のコンビでした。ここで8年間勤務させていただき、おおぜいの先輩や同僚に出あうことができました。
熊谷茂校長
熊谷校長は富山薬專の出身で、おおらかな人柄でした。重松薬房の会長重松為治(後の富山県日中友好協会会長)とも親しかったようで、ある日とつぜん体育館に全校生徒を集めて、内山完造さんの講演会が開かれました。あとで考えてみますと、1950年10月に日中友好協会(初代会長、松本治一郎。理事長、内山完造)が成立していますので、内山さんが富山へ見えたのも、協会の地方組織を固める全国行脚の一環だったかと思われます。
一井梅一校長
熊谷校長のあとが一井梅一校長(1952~1958)です。私事になりますが、一井先生と石金直義先生(1947~1951)のお二人は、妻信子の恩師です。女学校時代バスケットボール部に所属し、さんざんお世話になったそうです。
一井先生は、世間知らずでとかく暴走しそうなわたしのことを心配して、いろいろ助言していただきました。あとで触れますが、わたしの言動について「投書」事件がおこったときなど、「公務員として公正中立の立場をまもること」を教えられました。
東部中学の教師陣
1952年度と1953年度との教職員の写真を並べてみました。全体の顔ぶれはあまり変わっていませんが、学校長の両わきなど陣がまえが変化しています。52年度の写真では、一井校長のわきを桐井教頭・石金直義(教務)・富山良次(生徒指導)の3人で固めていました。それが53年度は、一井校長と富山先生(生徒指導)の席は前年通りですが、左どなり(教務)の席に中沖修先生(1950~1957)が写っています。
このころの先輩や同僚には、生涯忘れられない方たちがおおぜいいます。上田捨吉先生(1950~1957)とは、学年主任と学級担任のコンビで2度(第5回、第8回)も卒業生を送らせていただきました。また、同学年の学級担任仲間に三辺義雄・石田光明・桐井利明・武子梅雄・笹倉重雄・阿原秀雄・畔田三郎・中島正雄諸先生がいました。
中沖修先生
のちに富山市教育長になられただけあって、中沖修先生が東部中学校に着任されてからの活躍ぶりは、まわりの人の目を見張らせるものがありました。
その一例として、「第4回富山市中学校連合英語祭」のプログラム(表紙)をご覧にいれます。1952年 11月9日、東部中学校講堂で開催された時のものです。ざら紙B4判の二つ折り。見開きに英語の歌、朗読、劇などのプログラムをガリ版印刷。これが中沖先生直筆の手作りでした。
パールバック女史からの手紙
当時郵便局からの応援もあって、市内の中学校で「郵便友の会」(Pen Friend Club、略称P. F. C.)が組織されました。たまたま富山市中教研英語部会の席で、富山大学助教授須沼吉太郎先生がパール バック女史(「大地」の著者)からの手紙を披露されました。わたしは、かねがね東部中学の生徒たちとアメリカの子供たちとの文通運動を進めたいと考えていましたので、須沼先生に紹介していただき、女史あてにお願いの手紙を出しました。
半ばあきらめていたところ、ていねいなご返事の手紙がとどきました。「当地の私立学校の校長先生を紹介する」という内容でした。その手紙などを東部中学P.F.C.活動の一環として、学園祭に出品展示しました。
残念ながら、この手紙の現物は、いまわたしの手元にありません。どこかの新聞社か出版社から借用の申し出があり、気前よく渡してしまいましたが、それっきり行方不明のままです。
高松宮杯、英語弁論大会
1953年、T君が「高松宮杯、英語弁論大会」に出場しました。出場できたのは、本人のゆたかな天分とたゆまぬ努力によるものですが、出場を前に須沼吉太郎先生から格別のご指導をいただけたことに感謝しています。
はじめまして。わたくしは真船賢吾と申します。
返信削除つい先日、4月1日にわたくしの祖父である真船信夫が他界し、元気だった頃によく出かけていた華交長安会などはまだあるのだろうかと調べたところ、こちらのブログに辿り着きました。
記事を拝読させていただき、そこで既に会は解散されているということを知りました。寂しくも思いましたが、祖父から聞いていた話を思い出せる内容にとても嬉しさを覚えました。
またわたくし自身、世界史の講師を務めていたこともあり、近代史の貴重な記録の数々はとても興味深く、身辺が落ち着きましたら、ぜひまた熟読させていただきたいと考えております。
真船賢吾さま:
返信削除コメントありがとうございます。
わたしの手元に、1998年8月、真船信夫さんからいただいたハガキが残っています。「長安」33号原稿募集の案内で、その最後に、「小生の編集担当もココまでが限度カナの心境。呵々」とありました。
わたしは中国語が専攻ですが、この40年来日漢英の音韻比較作業をつづけた結果、「日漢英の共通語根が存在する」と考えるようになりました。このブログでも、おいおいこの問題にふれる予定です。こんごとも、よろしくお願いします。