2011年3月15日火曜日

貸本屋開業

ユメは「まちなかの図書館」


 


 



 


 


 


看板娘のリリー


 


 


 
貸本組合(千里ハイツ)


 


 

「宮仕え」はイヤ
数年間「華北交通」という国策会社で「宮仕え」してきたのですが、大日本帝国の敗戦で、それまでの価値観や人生観・世界観がひっくりかえりました。「宮仕え」は、もういや。これからは、じぶんの頭で考え、判断し、行動するようにしたい。そう思っていました。

本屋さんをめざす
そのころ、わたしのユメは「イズミ書店」開業。「商売」について、なんの予備知識も経験もないままでの思いつき。「めくら蛇におじず」「こわいもの知らず」の状態でした。

どうして本屋さんなのか? わたしの頭のすみに「内山書店」の姿があったことは否定できません。「内山書店」は東京にもありますが、もともと内山完造さんが中国上海で開いた書店で、魯迅や郭沫若はじめ日中文化人のサロンだったと聞いていました。

1946年7月? 「イズミ書店」開業をめざして活動開始。東京の兄の紹介で、「文芸春秋」、「オール読物」、「キネマ旬報」などを配送してもらえることになりました。売手市場というか、商品の仕入れさえできれば、いくらでも売れる時代でした。


 

貸本屋開業
しゃにむに本屋さんのまねをはじめたものの、とぼしい資本での新刊書販売はやはりムリだと気づきました。そこで、すこしでも資金の回転が速くなるようにと、新刊書中心から「貸本」中心へ方針転換しました。

ユメは「まちなかの図書館」。大衆的な小説本やマンガ本、月刊誌、週刊誌などのほか、「改造」、「中央公論」や、一部「岩波文庫」などもそろえたりしました。

はじめは、わたしが自分で書店から小説本や雑誌・マンガなどを仕入れてきて、それから後の仕事を信子が担当していました。しかし、やがてまもなく、本の仕入れから記帳まで、さらには貸本業者仲間の会合出席まで、全部信子の仕事になりました。


 

市場でアルバイト
その年の夏、わたしは富山駅前の市場でアルバイトをしました。傷痍軍人で富山市議の中谷鶴松さん(故人)が経営する氷水屋さんで使っていただきました。


 

貸本の全盛期
おかげさまで、貸本業はそのご比較的順調にのびました。同業者の数も、はじめは県内で数軒だったかと思いますが、やがて数十軒に増え、同業組合が組織されたり、共同出資で貸本向けの取次店ができたりしました。この貸本ブームは、テレビが普及するころまでつづきました。

わたし自身は、そのご県立富山商業高校や富山市立東部中学校など、またしても「宮仕え」の道を進みます。しかし「イズミの貸本屋」は、そのまま40年あまりつづき、やがて「中国物産コーナー」を開業する基礎になりました。つづいたのは、信子のおかげです。


 

平常心のささえ
1948年から1972年までの24年間、わたしは2度目の「宮仕え」をします。地方公務員ですから、「宮仕え」であることは間違いありません。ただし、中国大陸で敗戦をむかえ、「祖国再建の道」をさぐって八路軍とも接触したあとの「宮仕え」です。ひとりの市民として、「国づくり」、「教育のありかた」などについて、自分なりの理想をもっていました。その理想を公教育の中で実現してゆくのが教育労働者の任務だと考えていました。

「平和運動」や「自主的な教育研究集会」などの活動をすすめていると、いろいろ困難な問題が出てきます。「日教組から脱退しないと、管理職につけないぞ」といわれて、脱退した仲間もおおぜいいました。

わたし自身は、「戦争で、つぎつぎ仲間たちが死んでいった。じぶんだけ生きているのがフシギなくらい」と感じていました。「いまさら、じぶんの信念をまげてまで、出世する必要はない」

「武士ハ食ハネド高楊枝」ともいいますが、「恒産無クシテ、恒心無シ」、「腹が減っては戦ができぬ」ともいいます。わたしが、なんとか自己流のイキザマを変えずにすんだのは、やはり信子の店がささえてくれたからとも考えています。

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