2011年3月29日火曜日

東部中学校のころ①



東部中学職員、1952





東部中学職員、1953





連合英語祭プログラム





パールバック女史の手紙など





高松宮杯英語弁論大会出場




中学校教員に転出


新制高校で中国語科が廃止されたため、わたしは職場を失いかけましたが、さいわい富山市の中学校で英語科教員として勤務することができました。


英語は専攻外の科目であり、自信もなかったのですが、義務教育の仕上げ段階としての中学校教育はやりがいのある仕事です。 「こどもたちといっしょに勉強して、一人前の教師になりたい」と思いました。



富山市立東部中学校


1949年4月、富山市立東部中学校教諭(英語)を拝命。当時は三代校長熊谷茂(1948~1951)、桐井愛次教頭(1947~1952)のコンビでした。ここで8年間勤務させていただき、おおぜいの先輩や同僚に出あうことができました。



熊谷茂校長


熊谷校長は富山薬專の出身で、おおらかな人柄でした。重松薬房の会長重松為治(後の富山県日中友好協会会長)とも親しかったようで、ある日とつぜん体育館に全校生徒を集めて、内山完造さんの講演会が開かれました。あとで考えてみますと、1950年10月に日中友好協会(初代会長、松本治一郎。理事長、内山完造)が成立していますので、内山さんが富山へ見えたのも、協会の地方組織を固める全国行脚の一環だったかと思われます。



一井梅一校長


熊谷校長のあとが一井梅一校長(1952~1958)です。私事になりますが、一井先生と石金直義先生(1947~1951)のお二人は、妻信子の恩師です。女学校時代バスケットボール部に所属し、さんざんお世話になったそうです。


一井先生は、世間知らずでとかく暴走しそうなわたしのことを心配して、いろいろ助言していただきました。あとで触れますが、わたしの言動について「投書」事件がおこったときなど、「公務員として公正中立の立場をまもること」を教えられました。



東部中学の教師陣


1952年度と1953年度との教職員の写真を並べてみました。全体の顔ぶれはあまり変わっていませんが、学校長の両わきなど陣がまえが変化しています。52年度の写真では、一井校長のわきを桐井教頭・石金直義(教務)・富山良次(生徒指導)の3人で固めていました。それが53年度は、一井校長と富山先生(生徒指導)の席は前年通りですが、左どなり(教務)の席に中沖修先生(1950~1957)が写っています。


このころの先輩や同僚には、生涯忘れられない方たちがおおぜいいます。上田捨吉先生(1950~1957)とは、学年主任と学級担任のコンビで2度(第5回、第8回)も卒業生を送らせていただきました。また、同学年の学級担任仲間に三辺義雄・石田光明・桐井利明・武子梅雄・笹倉重雄・阿原秀雄・畔田三郎・中島正雄諸先生がいました。



中沖修先生


のちに富山市教育長になられただけあって、中沖修先生が東部中学校に着任されてからの活躍ぶりは、まわりの人の目を見張らせるものがありました。


その一例として、「第4回富山市中学校連合英語祭」のプログラム(表紙)をご覧にいれます。1952年 11月9日、東部中学校講堂で開催された時のものです。ざら紙B4判の二つ折り。見開きに英語の歌、朗読、劇などのプログラムをガリ版印刷。これが中沖先生直筆の手作りでした。



パールバック女史からの手紙


当時郵便局からの応援もあって、市内の中学校で「郵便友の会」(Pen Friend Club、略称P. F. C.)が組織されました。たまたま富山市中教研英語部会の席で、富山大学助教授須沼吉太郎先生がパール バック女史(「大地」の著者)からの手紙を披露されました。わたしは、かねがね東部中学の生徒たちとアメリカの子供たちとの文通運動を進めたいと考えていましたので、須沼先生に紹介していただき、女史あてにお願いの手紙を出しました。


半ばあきらめていたところ、ていねいなご返事の手紙がとどきました。「当地の私立学校の校長先生を紹介する」という内容でした。その手紙などを東部中学P.F.C.活動の一環として、学園祭に出品展示しました。


残念ながら、この手紙の現物は、いまわたしの手元にありません。どこかの新聞社か出版社から借用の申し出があり、気前よく渡してしまいましたが、それっきり行方不明のままです。



高松宮杯、英語弁論大会


1953年、T君が「高松宮杯、英語弁論大会」に出場しました。出場できたのは、本人のゆたかな天分とたゆまぬ努力によるものですが、出場を前に須沼吉太郎先生から格別のご指導をいただけたことに感謝しています。

2011年3月22日火曜日

富山商業のころ

富山商業校舎(五艘)



富山南部高校校舎



富商第50回同期会(1980)


富山商業学校
「二度と宮仕えはしない」と決意したつもりでしたが、「中国語をやらせてもらえる」と聞いて、たちまち変心。1948年4月。 富山商業学校の教員に採用していただきました。

この年は、旧制富山商業学校が新制高校に生まれかわる仕上げの年でした。旧制商業学校には「中国語科」が組みこまれていましたが、新制度では廃止になります。その最後の年度をまえに中国語教師が退職したため、その後任をさがしていました。「中国語オタク」で情報不足だったわたし以外には、だれも手を挙げなかったのかもしれません。

当時、富山商業のトップは酒井健作校長と木倉秀之教頭のコンビでした。このコンビは、やがて富山商業高等学校第17代校長、18代校長のコンビとして再現されます。

職員室では、高校統合を目前にして、それぞれの進退問題をふくめて真剣に議論していました。般若一郎さんが教職をはなれ、画業に専念する決意を固められたのもこの時期です。
(2010.10.26.イキザマの記録…般若一郎色紙「バカ面」の項参照)。

富山南部高校
1948年.9月、富山商業高校は富山高校・富山女子高校とともに富山南部高校に統合されます。1950年4月、その商業科、家庭科が分離独立して富山東部高校が新設され、さらに1953年2月、ふたたび校名を富山商業高等学校と改称します。

統合当時の校長は南日実先生、副校長は白旗次郎先生でした。
美術担当の東一雄先生とは、そのごもご縁があって、色紙も数枚いただきました。

富山商業とは,わずか1年のおつきあいでしたが、わたしが第二の人生をスタートするきっかけとなった職場であり、貴重な体験をさせていただきました。



2011年3月15日火曜日

貸本屋開業

ユメは「まちなかの図書館」


 


 



 


 


 


看板娘のリリー


 


 


 
貸本組合(千里ハイツ)


 


 

「宮仕え」はイヤ
数年間「華北交通」という国策会社で「宮仕え」してきたのですが、大日本帝国の敗戦で、それまでの価値観や人生観・世界観がひっくりかえりました。「宮仕え」は、もういや。これからは、じぶんの頭で考え、判断し、行動するようにしたい。そう思っていました。

本屋さんをめざす
そのころ、わたしのユメは「イズミ書店」開業。「商売」について、なんの予備知識も経験もないままでの思いつき。「めくら蛇におじず」「こわいもの知らず」の状態でした。

どうして本屋さんなのか? わたしの頭のすみに「内山書店」の姿があったことは否定できません。「内山書店」は東京にもありますが、もともと内山完造さんが中国上海で開いた書店で、魯迅や郭沫若はじめ日中文化人のサロンだったと聞いていました。

1946年7月? 「イズミ書店」開業をめざして活動開始。東京の兄の紹介で、「文芸春秋」、「オール読物」、「キネマ旬報」などを配送してもらえることになりました。売手市場というか、商品の仕入れさえできれば、いくらでも売れる時代でした。


 

貸本屋開業
しゃにむに本屋さんのまねをはじめたものの、とぼしい資本での新刊書販売はやはりムリだと気づきました。そこで、すこしでも資金の回転が速くなるようにと、新刊書中心から「貸本」中心へ方針転換しました。

ユメは「まちなかの図書館」。大衆的な小説本やマンガ本、月刊誌、週刊誌などのほか、「改造」、「中央公論」や、一部「岩波文庫」などもそろえたりしました。

はじめは、わたしが自分で書店から小説本や雑誌・マンガなどを仕入れてきて、それから後の仕事を信子が担当していました。しかし、やがてまもなく、本の仕入れから記帳まで、さらには貸本業者仲間の会合出席まで、全部信子の仕事になりました。


 

市場でアルバイト
その年の夏、わたしは富山駅前の市場でアルバイトをしました。傷痍軍人で富山市議の中谷鶴松さん(故人)が経営する氷水屋さんで使っていただきました。


 

貸本の全盛期
おかげさまで、貸本業はそのご比較的順調にのびました。同業者の数も、はじめは県内で数軒だったかと思いますが、やがて数十軒に増え、同業組合が組織されたり、共同出資で貸本向けの取次店ができたりしました。この貸本ブームは、テレビが普及するころまでつづきました。

わたし自身は、そのご県立富山商業高校や富山市立東部中学校など、またしても「宮仕え」の道を進みます。しかし「イズミの貸本屋」は、そのまま40年あまりつづき、やがて「中国物産コーナー」を開業する基礎になりました。つづいたのは、信子のおかげです。


 

平常心のささえ
1948年から1972年までの24年間、わたしは2度目の「宮仕え」をします。地方公務員ですから、「宮仕え」であることは間違いありません。ただし、中国大陸で敗戦をむかえ、「祖国再建の道」をさぐって八路軍とも接触したあとの「宮仕え」です。ひとりの市民として、「国づくり」、「教育のありかた」などについて、自分なりの理想をもっていました。その理想を公教育の中で実現してゆくのが教育労働者の任務だと考えていました。

「平和運動」や「自主的な教育研究集会」などの活動をすすめていると、いろいろ困難な問題が出てきます。「日教組から脱退しないと、管理職につけないぞ」といわれて、脱退した仲間もおおぜいいました。

わたし自身は、「戦争で、つぎつぎ仲間たちが死んでいった。じぶんだけ生きているのがフシギなくらい」と感じていました。「いまさら、じぶんの信念をまげてまで、出世する必要はない」

「武士ハ食ハネド高楊枝」ともいいますが、「恒産無クシテ、恒心無シ」、「腹が減っては戦ができぬ」ともいいます。わたしが、なんとか自己流のイキザマを変えずにすんだのは、やはり信子の店がささえてくれたからとも考えています。

2011年3月1日火曜日

帰国、富山定住

遠心力と求心力


在職証明書




退去証明書




引揚証明書




帰国

1946年5月。ようやく帰国することになりました。塘沽港で乗船するときには検閲があるからというので、書いたものは全部捨てることにしました。

実は、涿鹿から承徳まで移動の途中、持ちあわせの磁石と時計をたよりに略地図をつくっていました。客観的には1文の値打ちもない、ラクガキみたいなものですが、当人としては万感の思いをこめたタカラモノ。それも捨てました。

5月30日、博多港上陸。一人に新円1000円を支給されました。

6月1日、富山着。一面の焼け野原でした。信子の実家をたずねましたが留守。民生委員中林さん宅で昼飯をごちそうになりました。


山に定住

予定では、信子の実家がある富山へ立寄ったうえ、旭川まで帰るはずでした。それが、富山に到着してから、たちまち予定を変更。富山に定住することになりました。直接の動機は、当時信子の母親(恵明さん)がつよく希望されたことです。

加藤家の地面の一角を借りて9尺2間の小屋を建て、そこで寝泊りすることにしました。

材木を購入し、自力で小屋を組み立てました。中学校で習った工作科の体験が役に立ちました。トイレは、しばらく加藤家のトイレを借用させていただきました。


遠心力と求心力

わたしの父長蔵は富山から北海道にわたりましたが、定年すぎてから本籍地の富山に帰ってきました。その息子のわたしは中学校卒業まで旭川で過ごし、東京外語へ進学してからも「そっちが江戸っ子なら、こっちはエゾッコだ」などといっていました。卒業と同時に「華北交通」に就職。そのころは、「中国大陸で骨を埋める」覚悟でした。

それからわずか5年。敗戦で、わたしは中国から日本へ帰ってきました。しかも、北海道へゆく途中で予定を変更、富山に住みついてしまいました。かねがね「第一の故郷が北海道。第二の故郷が中国大陸。第三の故郷が富山」といっていたのですが、もはや富山定住65年。「根っこは、やっぱり富山の人間だった」と考えるようになりました。

人間の行動には、遠心力と求心力が働いているようです。それは、ひとりひとりのDNAの中に組みこまれているのかもしれません。親元をはなれて留学したり、結婚して独立の家庭をもったり、ベンチャー企業をおこしたりする場合は、とりわけ遠心力がつよく働きます。ぎゃくに進学・就職や結婚に失敗して、家に引きこもったり、行動が全般的に消極的になったりすることもあります。

個人にかぎった話ではありません。国家とか民族とか、あるいは階級や政党などという集団の栄枯盛衰を見てみても、同様な原理が働いているようです。

いま日本の大学生たちのあいだでは、就職活動にさしつかえるので海外留学を敬遠する傾向があるという話を聞きました。これも、遠心力と求心力のバランスの問題かと思います。