2011年3月22日火曜日

富山商業のころ

富山商業校舎(五艘)



富山南部高校校舎



富商第50回同期会(1980)


富山商業学校
「二度と宮仕えはしない」と決意したつもりでしたが、「中国語をやらせてもらえる」と聞いて、たちまち変心。1948年4月。 富山商業学校の教員に採用していただきました。

この年は、旧制富山商業学校が新制高校に生まれかわる仕上げの年でした。旧制商業学校には「中国語科」が組みこまれていましたが、新制度では廃止になります。その最後の年度をまえに中国語教師が退職したため、その後任をさがしていました。「中国語オタク」で情報不足だったわたし以外には、だれも手を挙げなかったのかもしれません。

当時、富山商業のトップは酒井健作校長と木倉秀之教頭のコンビでした。このコンビは、やがて富山商業高等学校第17代校長、18代校長のコンビとして再現されます。

職員室では、高校統合を目前にして、それぞれの進退問題をふくめて真剣に議論していました。般若一郎さんが教職をはなれ、画業に専念する決意を固められたのもこの時期です。
(2010.10.26.イキザマの記録…般若一郎色紙「バカ面」の項参照)。

富山南部高校
1948年.9月、富山商業高校は富山高校・富山女子高校とともに富山南部高校に統合されます。1950年4月、その商業科、家庭科が分離独立して富山東部高校が新設され、さらに1953年2月、ふたたび校名を富山商業高等学校と改称します。

統合当時の校長は南日実先生、副校長は白旗次郎先生でした。
美術担当の東一雄先生とは、そのごもご縁があって、色紙も数枚いただきました。

富山商業とは,わずか1年のおつきあいでしたが、わたしが第二の人生をスタートするきっかけとなった職場であり、貴重な体験をさせていただきました。



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