2010年10月26日火曜日

イキザマの記録

ブログ「いたち川散歩」をはじめて3ヶ月。まだまだ半人前の試運転状態がつづいています。それでもよくばって、こんどはじぶんの90年間のアユミ・イキザマを記録するシリーズを思いたちました。タイトルを「七ころび、八おき」、サブタイトルを「わたしのリレキ書」としました。

 「七ころび、八おき」というと、なにか「不撓不屈」のヒーローを気どっているようにきこえるかもしれませんが、そういう意味ではありません。「何回も失敗しましたが、おかげさまで、毎回もういちど起きあがることができました」という気持ちをこめて、このタイトルにしました。

イキル[生]とは、イキ[息]をすることだと思います。イキは空気の流れ。また、雰囲気です。イキは、時間・時代や場所のちがいで、「微妙に」あるいは「はげしく」変化します。昼と夜、夏と冬、平時と戦時などで、おおきく変化します。

いまは、日本人の平均年齢が80歳をこえました。それだけ日本社会の空気=イキが変化し、日本人のイキの仕方=イキザマも変化してきたといえるかもしれません。

わたしがイキてきた時代は、大正~昭和~平成の3代、90年間。空間でいえば、北海道旭川~東京~中国天津~張家口。やがて、ふりだしにもどって富山。いろんな時期、いろんな場面で、いろんなイキをすったりはいたりしてきました。

そのイキの仕方=イキザマを記録としてのこすことが、このシリーズの目的です。資料に基づいて、できるだけ具体的な事実だけを報告するように心がけますが、それでもじぶんに都合の悪いことは報告をサボるかもしれません。どこまで正直になれるか、あまり自信がありません。





「行為と妄想」梅棹忠夫



このシリーズを思いたった直接の動機になったのが、梅棹さんのこの本です。「行為と妄想」というタイトルは抽象的で、サブタイトル「わたしの履歴書」のほうが具体的でわかりやすいことはたしかです。しかし「妄想が先行していたからこそ、行為が成立する…」という観察眼に敬服し、見習いたいと思っています。

梅棹さんとは、直接の面識がありませんが、イキていた年代がまったくおなじ1920年生まれ。1945年「大日本帝国敗戦」当時、梅棹さんは張家口西北研究所に、わたしは張家口鉄路局に勤務していました。

蒙彊地区在留邦人が、戦場となった張家口から脱出した当時の状況についても、この本の中でかなりくわしく、なまなましく記録されています。

こんどのシリーズでは、「敗戦前後の張家口」や「八路軍との接触」などの場面で、いやおうなしに当時のイキザマをさらけだすことになるかと思います。



般若一郎色紙「バカ面」




これは、わたしが尊敬する画家、般若一郎さんからいただいた色紙です。
般若さんは、1910(明治43)年11月26日生まれ。1934年、東京美術学校彫塑科卒業。1938年応召。北支へ。翌年内地帰還、解除。1941年4月、富山県立富山商業学校教諭。以後も再三応召・除隊。1945年、最終的に召集解除。富山商業学校に復職。1948年9月、退職。

富山商業高校の職員室で毎日般若さんと顔をあわせていたのは、1948年4月から8月まで、ほんの数ヶ月。ちょうど高校統廃合の直前でもあり、教師ひとりひとりが去就をせまられていました。般若さんは、「教員として勤務しながらの片手間では、ほんとうに描きたい絵が描けない」といって、退職・独立の道をえらばれました。

 わたし自身はというと、それまで「宮仕えはイヤ」といって浪人していたところに、「中国語をやらせてもらえる」と聞いて、たちまち変心、やる気満々になっていました。

ところが現実は、その年9月、富山商業高校が富山南部高校に統合。翌年の1949年度からは高校の中国語科が廃止。わたしは中学校にまわって、専攻外の英語科を担当することになりました。勉強不足のため、半年か一年のあいだに世間がどう変化するか、ぜんぜん先が見えていなかったわけです。

ヒトはイキをしないと、イキルことができません。まわりの空気=イキに対してイキ苦しさを感じるようになった場合、どんな「イキの仕方=イキザマ」をえらぶか、決断をせまられます。
①まわりの空気にあわせて、「イキの仕方=イキザマ」を変える。
②まわりの空気を変える。自立、転職、移住など。
③イキをすることを止める。引退、自殺など。

 「バカ面をさらせ…」は、わたしにとって「座右の銘」。般若さんのシッタ・ゲキレイをうけながら、このシリーズにとりくみます。どうぞ、よろしく。