2011年7月26日火曜日

中国物産コーナーのころ③

中国語ブームのかげで

北陸銀行本店

YKK生地工場

(ブログ 改・なおちゃじーらと見たあれこれ より引用
)

「中国語学習のあゆみ…富山1975」

わが名はヰヒカ 

ヒコ大王のほこり

中国語学習ひろまる
中国旅行がブームになり、中国商品が出まわるようになって、中国語への関心も高まってきました。自治体や高校、商工会議所、企業などで、中国語講座を開設する動きがあり、わたしも1週間の日程がぎっしり満杯という時期がありました。手元のメモにあるだけ記します。
1974年4月~6月、北陸銀行研修所内に臨時中国語教室。24名。
1975年4月、北銀向川原町支店(中島寛治支店長)で中国語講座。14名。
1988~1989年、 氷見市商工会議所主催、中央公民館で中国語講座。19名。
(年月不詳)、YKK(黒部市)で、社員研修として中国語教室。数名分の名簿をいただきましたが、当日の勤務の都合などで、ほとんどマンツーマンの状況でした。それから数年後、1992年5月に上海YKKジッパーが設立されました。

「中国語学習のあゆみ」を刊行
1970年に富山中国語同好会が県民会館で「初級中国語講座」を開設してから5年になるのを記念して、「中国語学習のあゆみ…富山1975」を刊行、富山県内の中国語学習状況について紹介しました。おもな項目は、つぎのとおりです。
■富山県中国語同好会のあゆみ(増山乗真)
■富山中国語同好会中級班記録(土田豊茂)
■学校教育・民間教育のなかの中国語…アンケートから
■問題提起① 論語に表われた孔子の反動性(松井武男)
■問題提起② 漢字からローマ字へ…中国モジ改革の現状と将来(イズミ オキナガ)

古代語発掘シリーズ
1977年から1981年にかけて、富山の建設会社(株)岡部組(当時)の広報誌「おかべ」に「古代語発掘シリーズ」などを寄稿させていただきました。編集担当の橋本善七郎さん(元高校教師)が声をかけてくれたおかげです。当時わたしは、仮説「象形言語説」を発表したあと、その検証作業としてヤマトコトバの単語家族関係を調べ、漢語・英語と比較するための資料づくりをしていました。単語を音韻面から分析し、語根と派生語との関係をたどり、整理する作業です。
(このブログの画像として引用した文中のカットは、編集員梅本公美子さんの作品)
■「わが名はヰヒカ」(1977.11.「おかべ」81号)…尾ある人、ヰヒカ。実は、ピッケルと毛皮のシリアテを身につけた山男スタイル。ヰ[井]ヒカ[光]=well picker=井戸堀職人=鉱山採掘技術者…イワオシワク[岩押分]ノ子と協業関係…「古事記」は、全編「鉄器文化伝来の歴史書」…ヤマトコトバのヰヒカ[井光]と英語音well pickerとの対応関係は、単なる偶然ではなかろう。
■「ヒコ大王のほこり」(1977.12.「おかべ」82号)…「ヤチホコ[八千矛]ノ神」は、「たくさんの武器をもつ大王」の意味だが、語源的にはヤチ=ヤ[矢]チ[道・鉤]、つまりヤジリ・ツリバリのたぐいか。サチ[幸]と、音義ともに近い…ヒコ大王の系譜。ヒコは、「日の御子」でもあるが、動詞ヒク[引・弾]の名詞形(ヒクもの)でもある。…シラヒゲの神は、gold pickerか。ヒゲは、ヒカ[光]の交替音で、顔に打ちこまれたクイ[杭]、picker, ピッケルの姿。
■「岩をサク矢」(1978.3. 「おかべ」85号)…コノハナサクヤ姫物語。花がサクとは、花びらがサケル・ヒラクこと…s-k音のコトバ。サク[裂・割・咲]、サカエ[栄]、サカエル[栄]、サキ[先・崎]…サカエルとsucceed. 木の枝がサケ、第二の枝を生ずる姿がsecond、つぎつぎ続く姿がサカエル、succeed. また、シキル・ヒキサク姿がsect, section, screen..…岩をサク技術の伝来 。天皇が酒によって道ばたの岩を打つと、その岩が走って逃げた(記、応神)。「堅石モ酔人ヲ避ク」タガネを使って岩をサク(石材を切り出す)技術が伝来したことの証言。
■「岩をサク矢(続)」(1978. 4. 「おかべ」86号)…イワ[石]立たすスクナ御神=少彦名の神。スクナ=スク[鋤]ナ[刃]…クエビコ=カカシ[案山子]=木製のスキから金鋤に変化した歴史の証人…スクナ神の誕生。スクナは、[小・少]の意味を表わすまえに、(田を)スク[鋤]ナ[刃]を意味した。漢語ショウ[小・少]も、「サク・スク・ソグ」姿を表わすs-k音グループの語。
■「カスガとクサカ」(1978. 5.「おかべ」87号)…「カナスキの岡」(記・雄略)の故事は、日本列島に金属製スキ[鋤]が伝来したことを記念する証言。それまでは木製(スギなど)。スク[鋤]道具がスキ[鋤]…ハルヒのカスガとは?ハル[春]=草木の芽や根が大地をハル[張]・ワル[割]季節。カスは、カブサル・クイコム姿…クサカはク[日]サカ[下]か、クサ[草]カ[所・香]か?ヒノモト[日本]のクサカ[日下]という発想。そのオオクサカ王は雄略天皇の父安康天皇に滅ぼされた。
■「とぶ鳥のアスカ…太陽信仰の系譜①」(1981. 6.「おかべ」124号)…飛鳥と明日香。飛ぶ鳥がなぜアスカか?…クラヤミがアス(アセル)時がアサ[[朝]。アサまでヤスム。その場所がアスカ。飛ぶ鳥がサグリ(ask)あてた安住の地、アスのアサまでヤスムところ…「朱鳥元年」の朱鳥(あかい鳥)はキジ[雉]のこと(矢+隹の字形)
■「とぶヤトリの歌…太陽信仰の系譜②」(1981. 7. 「おかべ」125号)…法の興りし寺=法興寺=トブヤトリ([飛ぶ矢の鳥)=アスカ[飛鳥]の寺…堂塔は鳥の姿。飛ぶ鳥がヤドル姿、また飛びタツ姿…矢鳥と宿り。ヤドリ[矢鳥]がヤドル[宿]ところ。
■「朝日のヒデル宮…太陽信仰の系譜③」(1981. 8. 「おかべ」126号)…西安の「雁の塔」(大雁塔・小雁塔)…五層・七層の屋根は、五羽・七羽の雁が羽を連ねて飛ぶ姿…太陽=火の鳥=不死鳥=飛ぶ矢鳥…テラ[寺]の屋根がテル[照]…樹下美人とトリのトリあわせ…テルものがテラ。アマテラス[天照]の権威を守る(独占する)ために、斎宮ではテラ[寺]を禁句とした。

これらの作品は、あらかた「コトダマの世界…象形言語説の検証」(1991年、社会評論社)にとりいれました

2011年7月12日火曜日

中国物産コーナーのころ②


高まる中国旅行ブーム

日中友好協会学習訪中団 1972

富山県民の翼訪中団 1978

秦皇島市友好訪問団が来富 1981

同経済視察団来富    1983

富山市民の翼       1986

県、経済文化訪中団 1987

北京天安門前  1998

兵馬俑    1998


27年ぶりの中国
1972年5月19日から、6月11日まで、「日中友好協会学習訪中団」に参加しました。ニクソン大統領訪中(2月)の直後、田中首相訪中(9月)の直前のことです。
国交回復のまえなので、公務員の中国旅行は許可されていません。学校をやめたおかげで、やっと中国旅行の条件がかなったわけです。1946年に中国をはなれてから、27年ぶりの訪問でした。
中国語研修の資料採集のため、カメラのほかにテープレコーダを持ちこむことの許可もとりました。「文化大革命は収まったのか?」、「革命で、コトバづかいや文字表記がどれくらい変化したか?」、ぜひ自分の目と耳でたしかめたいと考えていました。

旅行ガイドさんの仕事ぶり
当時はまだ、北京や上海への直行便がありません。返還前の香港で飛行機を降り、深圳地区にはいって、はじめて「五星紅旗」が青空高くひらめいている姿を見ました。
「学習訪中団」は、3週間あまりかけて、広州・韶山(毛主席故郷)・武漢・上海・北京など各地をまわり、新生中国の歴史を「学習」しました。案内してくれたのは、中国の「國際旅行社」の社員たちですが、日本の旅行社のガイドさんとは、まるで違った感覚でした。みなさん日本語が上手で、日本人の生活習慣にも気を配ってくれるので、感心してしまいましたが、よく考えてみると、そこはお国柄のちがい。名目は民間の「旅行社」ガイドですが、じつは中国外務省出先機関の最先端であり、対日工作員の任務を持つと解釈する方がわかりやすいかと思います。

文革のなごり
「文革は終息し、あらたな建設の時代に向かっている」という報道もあり、あやふやなまま中國へ出かけました。訪問先では、農民や労働者たちがみんな「我々は文革をこんなふうに戦った」と報告していました。上海の農村部で、ひとりの老人が上海方言で語りはじめた時、訪中団随行のガイドが理解できず、いちど地元のガイドが北京語に通訳し、随行のガイドがあらためて日本語に通訳する場面もありました。
公式発表では「文革は終息した」はずでしたが、中国は「地大物博」。局地的にはまだ文革が収まっていないようでした。

古い友人、新しい友人
訪中団一行は北京の人民大会堂で、中日友好協会会長郭沫若さんと面会することができました。この席で郭沫若さんは、まず文革の中で、「私が以前に書いたものは、すべて焼き捨てるべきもので少しの価値も無い」と自己批判したことを語られました。そのあと新時代の日中関係について、「古い友人、新しい友人」という表現で、中国がわの基本方針を語られました。
この席でも、訪中団員の一人が旅行中に話していたコトバを取りあげ、そこから日中関係論につなぐなど、きめ細かな演出が見られました。その団員というのは、新潟県出身で建設業関係の方でした。そういえば、國際旅行社のガイドさんたちは、一日の日程が終わったあと、夜おそくまで会議を開いていたようです。

友好省県・都市の交流
日中国交正常化(1972.9.)につづいて日中平和友好条約締結(1978.8.)。これで、日本と中国の関係は確実に新時代にはいりました。富山県と遼寧省が友好省県、富山市と秦皇島市が友好都市の協定を締結などのことがあり、日中間の人の交流、旅行も増えてきました。わたしも通訳に動員されたり、日中友好協会の役員として旅行に参加したりしました。
1978.8.富山県民の翼訪中団。団長、森岡政治副知事.総秘書長、松村青年県議。イズミが通訳。
1985.5. 富山県民の翼。団長、中沖豊知事。総秘書長、岡部昇栄県議。イズミが事務局員として参加。
1987.7. 県、経済文化訪中団。団長、金尾力松(富山商工会議所副会頭)。副団長、本川藤由。秘書長、前川弘義。イズミが通訳として参加。
1981.5. 秦皇島市友好訪問団が来富、友好都市締結.改井秀雄市長、許斌市長。
1983.6. 秦皇島市経済視察団が来富。于正珊副市長一行6名。日本滞在最後の夜(6/13)、団員黄順通氏(通訳)がイズミの手帳に記した作品。「来東京、握手告別、梅雨中」、「成田来て別れを告ぐやつゆの中」。平生俳句とは縁のうすいイズミも一句、「つゆの間の成田の空へ君送る」。
1986.9. 友好都市締結5周年記念、富山市民の翼が秦皇島市を訪問、記念植樹、太陽電池時計塔の贈呈など。市長、議長一行149名。イズミが参与として参加。

家族旅行
1972年の「日中友好協会学習訪中団」から1987年の「県、経済文化訪中団」までの14年間、通訳その他の仕事で中国各地を訪問させていただきました。その都度、北京では故宮博物院・頤和園・八達嶺・明十三陵、西安では兵馬俑・大雁塔・華清池などの観光スポットが組みこまれています。
平生でも、中国語講座などでわたしは外出することがおおく、店の方はほとんど妻信子に任せきりです。中国の商品をあつかっているのですから、生産地中国を見学しておかなくてはというわけで、なんとか日程を調整して、信子といっしょに観光旅行にも出かけました。
張家口を訪問する企画もあったのですが、そのときは日程の都合がつかず、参加できませんでした。いま思っても残念ですが、欲を出せば切りがありません。