2011年5月31日火曜日

山室中学校のころ① 

山室中学教職員

「英語学習における能力差の問題をどう考えるか?」、1965.8.


「古代日本語の構造にかんする仮説」、1969

「象形言語説による英語音韻論」、1970

「英語学習基本語い集」、1971

山室中学校へ転勤
1965年4月、 山室中学校へ転勤を命じられ、1972年3月まで7年間勤務することになりました。
じつは、手元に当時の校舎の写真が見当たらず、教職員の写真だけ掲げましたが、これも何年度のものか、思いだせません。ボケましたね。

常願寺川の河川敷に精通
1年1組を担任。1966年1月に発行した「学級通信」が残っています。ただし第2号まで。東部中学時代の「カガミ」のようなわけにはゆきませんでした。
校務分掌では、生徒指導を担当。生徒の中には、学校をさぼって、自動車製造工場敷地に並ぶバスの中で仮眠したり、常願寺川の川原をさまよったりするものもいました。そのたび心当たりの場所へ探しに出かけます。おかげで、常願寺川の川筋や、おおきな岩のありか、グミの木のありかなど、あらかた覚えました。いっぺん大雨が降れば、すっかり様変わりするわけですが。

学習指導法改善を目指す研究会
北部中学のころ、学校課題として「生徒の能力差に応じた学習指導」の研究にとりくみました。
山室中学に来てからも、富山市中教研の外国語部会でこの問題について議論しました。
さらに、1966年1月、日教組15次教研全国集会(福島市飯坂)の外国語分科会でも、「能力差の問題」がとりあげられました。このとき提出したリポートが「英語学習における能力差の問題をどう考えるか?」(北部中学での「能力別学級のこころみ」の実践報告)です。

真剣勝負で議論
福島の教研集会で、石川・新潟・兵庫など全国各地の英語教師たちの話をきくことができました。みんなたいへんな勉強家ぞろいで、それだけ自信に満ちた教師・研究者・活動家たちでした。それが真剣勝負で議論を戦わせます。「これこそ本物の教育研究だ」と痛感しました。
富山へ帰ってから、市教組の仲間たちに福島教研集会の様子を報告するとともに、あらためて「教育研究のありかた」について討論をおこすよう呼びかけました。
「なんのために外国語を学習するのか」…「能力別学級編成」と「小集団による学習指導」(市教組機関紙「けんせつ」18号、1966.4)。

「仮説、象形言語説」を発表
わたしは中国語を専攻したことから、日本語(ヤマトコトバ)と中国語(漢語)の音韻比較作業をはじめ、やがて「ヤマトコトバの成立過程」について自分なりの仮説を立て、発表しました。
1968年2月、「古代日本語の形成過程Ⅰ」…古事記と魏志倭人伝の分析から
1668年10月、「古代日本語の形成過程Ⅱ」…単音節からマクラコトバまで
1969年7月、「古代日本語の構造にかんする仮説」…「語い構造にかんする仮説」、「音節構造にかんする仮説」、「単語家族表」
いずれも、著作などと呼べる作品ではありません。1968年4月、広瀬誠先生からご批判をいただき、上代日本語カナヅカイの問題から勉強しなおすことになりました。

広瀬先生との論争で完敗しましたが、それは致命傷にはなりませんでした。それよりも、中国語の学会の席で先輩から「仮説というからには、せめて3か国語以上について論証せよ」と忠告されたことの方が気になりました。日本語と中国語と2か国語だけでは、点か線にしかなりませんが、3か国語なら、なんとか面になるからです。
英語は専攻でないので、だれか共同研究者になっていただければと考えていたのですが、そんな奇特な方はなかなか見つかりません。やむなく自力でトボトボ歩きだすことにしました。
1970年7月、「象形言語説による英語音韻論」…発音と意味の対応関係をさぐる
1971年2月、「英象形言語説による語学習基本語い集」…富山県教育委員会島上与作氏のご高配をいただき、財団法人教育振興会から教育研究奨励金の交付をうけました。

「象形言語説」発表の動機
どうしてこの時期に「象形言語説」などというオバケみたいな議論をはじめたのか?ご参考までに、前記「象形言語説による英語音韻論」の<あとがき>から要約、引用します。

69年のくれ、東京の兄のところで、なくなった父の葬儀をすませたあと、母校の東京外大をおとずれた。正面の校舎のカベに「帝国主義大学解体」など、はげしいコトバがペンキでかきなぐられていた。研究室のカベにも「○○よ、ただちに辞職せよ」といったおどし文句。「大学紛争」の中で、教授と学生たちとの間に共通のコトバが失われていることを見せつけられた。
いくつかの研究室をたずねて、教授たちにわたくしの仮説を説明し、いろいろ指導、助言をいただいた。よい勉強になったと感謝すると同時に、なんともいえないムナシサを感じていた。つまり「断絶」である。コトバにたいする感覚のズレである。
国語教育でも、外国語教育でも、「コトバの音声面」をだいじにするよう強調する。しかし「コトバは生きている」などという人でも、「コトバは発音そのものに意味がある」、「発音と意味とのあいだに、整然たる対応関係がある」というところまで、ふみこんで探求しようとはしない。これでは、コトバを生きたままの姿でとらえることはできないではないか?
わたしの場合、「発音と意味の対応関係を考えようとするのは、ムダですよ」という忠告が逆に作用して、「そういう常識をつきやぶって、あたらしい理論をうちだしてみよう」という気持になった。そのいきおいで、「象形言語説」までたどりついた。

2011年5月17日火曜日

北部中学・西部中学のころ 

北部中学校全景、1959.



 

北部中学宮井定義校長、1959



 

北部中学教職員、1959.



 

運転免許、1958



 

「漢字の歴史」、1958



 

西部中学校校舎、1963



 

西部中学校教職員、1963



 

北部中学校へ転勤
1957年3月末、 北部中学校へ転勤を命じられました。東部中学までは毎日自転車で通勤していましたが、こんどは自転車では無理。富山駅から東富山駅まで電車で通勤することにしました。


 

生徒指導担当で運転免許
学校では、英語の授業のほかに、生徒の生活指導を担当することになりました。こどもたちがいつ、どこで、どんな事故に巻きこまれるかもしれません。そんなとき、1分でも早く現場に駈けつけて、問題を処理するのが仕事です。自転車がないからといって、テクテク歩いてでは間にあいません。そこで1958年の夏休み、自動車学校に通って運転免許を取りました。クルマで移動できるようになったことで、生徒指導の面でも、通勤や私生活の面でも、たいへん便利になりました。まだ、クルマでの通勤がめずらしかった時代のことです。


 

宮井定義校長
1959年4月、宮井定義校長が赴任して来られました。下新川郡三日市(現黒部市)出身で、すこしナニワ節調のところがありますが、それだけ人情味があり、個人的にはたいへん親しみがもてる校長さんでした。わたしが教員組合の運動に熱心なことを承知の上で「特別昇給」させるなど、当時の富山市立中学校の校長としては、一風変わっていたかもしれません。


 

手さぐりの「民主化」
新制中学校の役割は、義務教育の仕上げ段階として、まがりなりにも一人前の民主主義を身につけた国民を社会へ送りだすことである。 わたしは、そう信じていました。
「こどもは親の背中を見て育つ」といわれるように、両親の役割も重要です。しかし、なによりまず教師自身が民主主義を実践し、お手本を見せることがたいせつ。職場の民主化を実現できない教師は、生徒に向かって民主主義を説く資格も能力もあるわけないでしょう。そして、その職場の民主化をささえるものが教育労働者の組合、つまり教員組合のはずです。
宮井校長は生徒指導にも熱心で、暴力ざたをおこした生徒を校長室に呼んで、直接指導することがあり、たまたま柔道の足技をかけるみたいな場面もありました(さいわい、ケガはなし)。生徒指導担当として立ちあっていたわたしは、ただオロオロしているだけ、なにもできませんでした。いま思いかえしてみれば、生徒指導担当として落第ですね。まずは、日ごろの生徒指導が不十分だったことをおわびしたうえで、万が一にも生徒にケガのないよう校長先生に自制をお願いすべきでした。
会議などの場で正面から「民主化」を議論することはできていましたが、身近なところで「民主化」を実現する技術がまだ身についていませんでした。


 

「主体的学習」と「集団競争」
1959年7月、職員研修会議に提出した討議資料コピーの要点を紹介します。
「主体的学習」と「集団競争」…学力水準をたかめるための一つの提案
①北部中学校生徒たちの学力について実態を確かめ、具体的な到達目標を設定する。
②確実に目標まで到達できるような学習指導法を準備する。
③受動的な学習をやめ、主体的な学習をめざす。
④「集団競争」という評価法をとりいれる…以下省略。
もちろん、これは研修会議の討議資料であり、学校運営に直結する職員会議の資料ではありません。しかし、このころまでは職場で、この種の提案・討論ができたことがわかるかと思います。


 

能力別学級のこころみ
当時どこの中学校でも、「生徒の能力差に応じた学習指導」をテーマにした研究が流行していました。
「学習は、個別に成立する」、したがって「個別指導」が理想。しかし、実態は(50人ほどの)「一斉授業」。そこで、いろんな提案があり、実験がおこなわれました。北部中学では宮井校長の主導で、2年間(1961~1962)かけて「能力別学級」の実験をすすめました。要点だけ紹介します。
①国語・数学・英語の3教科について、能力別学級で授業を実施する。
②3個または2個の自然学級を解体して、ABCまたはABの能力別学級を編成する。
③おなじ1人の教師が、ABCすべての授業を担当する。
④(学級を数個のグループに分け)、グループ学習の方法をとりいれる…以下省略。
いずれにしても、学習の主体は生徒自身です。そこで、生徒たちがこの能力別学級編成をどう思ったか、実施当初や途中でアンケートもとりました。富山市中教研の英語部会でも報告しました。
しかし残念ながら1963年度末の異動で、わたしは西部中学校へ転勤となり、北部中学校の学校課題がその後どうなったのか、知る由もありません。能力別学級については、賛成、反対、評価はまちまちでしょうが、貴重な体験をさせていただいたと思っています。   


 

中国のモジ改革運動に関心
英語科の教材研究に追われる毎日でしたが、ヒマを見つけて中国語の学習をつづけ、とりわけ中国のモジ改革運動にかんする情報や資料を集め、機会があれば報告・発表していました。
1957.10. 「中国ニオケル文字改革ノ アシナミ」 カナノヒカリ424号(財団法人カナモジカイ機関紙)。
1958.3. 「漢字とカナとローマ字」 北中生徒会誌「曙光」。


 

「漢字の歴史」出版のこと
1956年12月ころ、東京外語の先輩、大阪市立大学教授香坂順一先生から「中国のモジ改革」にかんする解説書をつくるお話があり、たくさんの文献・資料が送りとどけられました。その翻訳と整理に追われる日々がつづきました。
1958年5月、 「漢字の歴史」(香坂・イズミ共著、江南書院)が出版されました。8月には、翁久允先生、下斗米晟先生はじめおおぜいの方々にご出席いただき、出版記念会も催されました。
しかし、わたしのミスで、このたびの出版は失敗に終わりました。
①タイトルを「漢字の歴史」としましたが、内容は「中国の文字改革運動の歴史」です。わたしは漢字の研究者ではありませんし、もともと「漢字の歴史」を語る資格も意志もありませんでした。
②当時のわたしは、著作を発表することの責任の重さがよくわかっていませんでした。とりわけ、作品の中に取りこんだ情報・資料の出典を明記することなどの点で、注意が不足し、初歩的なミスをおかしました。
香坂先生はじめ関係者の方々にご迷惑をかける結果となり、反省しきりです。


 

中国語講座を開講
「漢字の歴史」出版では失敗しましたが、中国語学習運動への熱意は変わりませんでした。
1961年2月20日から、週2回で3か月間、日中友好協会富山県支部主催の中国語講座で講師をつとめました。会場は富山労働会館2階会議室、テキストは「漢語教科書、上巻」(光生館)を使用しました。
受講生は、最年長は47歳の主婦。最年少は富山大学生。大学で中国語の講義を受けているが、もう少し突っこんで勉強したいとのこと。そのほか、新聞記者、労組役員、会社員など、計15名。平均年齢27才。(この項、「中国語学習の歩み」富山中国語同好会、1975による)


 

西部中学校へ転勤
1963年3月末、西部中学校へ転勤。
西部中学在勤は、わずか2年間。どれだけの仕事ができたか、教師としてどれだけ成長できたか、あまり記憶がのこっていません。校務分掌としては、ここでも生徒指導を担当。どこかで男子生徒が他校の生徒とケンカしてケガさせたという電話がはいると、すぐさま現場に駈けつける。ケガをした生徒さんの家をたずねて、保護者の方に頭を下げる…いまは、なつかしい思い出です。


 

「教育研究」の舞台うら
当時、西部中学校は「教育研究指定校」になっていました。
学校をあげての「研究発表会」を目前にしたある日、教務主任のH先生が病気で欠勤と聞かされました。心配になって、ご自宅にお見舞いにうかがいましたところ、なんと意外、先生はお元気でした。
「実は、学校にいては研究発表の資料づくりに集中できないので、発表会に間にあいそうもない。それで休暇を取って、自宅で仕事をすることにした」とのことでした。
数日後、研究発表会あとの講評で、市教委指導主事が「目からウロコが落ちた思い」と絶賛していました。
H先生、まことにご苦労様でした。


 

風にそよぐ市教組
あれからおよそ半世紀たちました。いろんな記憶がうすれてゆく中で、ひとつだけますます確実になってゆく記憶があります。それは、西部中学校に勤務した2年間が富山市教員組合にとって最大のピンチだったと思われることです。
富山市教組の組織自体にも問題があったかもしれません。県教組や日教組中央の指導にも問題があったかもしれません。とにもかくにも、富山市小中学校の教職員、つまり教育労働者の組織が分裂し、それまでほぼ100%の組織率をもっていた市教組が、あっという間に少数派になってしまいました。
教育労働者というのは、工場労働者とすこしちがいます。もともと「風にそよぐ葦」なんですね。口先で「民主主義」をとなえていても、ちょっと風が吹くと、たちまち「風前のともし火」状態になったりします。


 

いま思うこと
東日本大震災から2か月すぎたいま思うこと、考えさせられることがあります。
日本は、太平洋戦争で世界初の原発被害国になり、核兵器反対運動の先頭に立っていたはずです。それがこんどの福島原発の爆発事故で、世界最大(それともアメリカについで第2?)の核加害国になってしまいました。
「日教組つぶし」という津波がおしよせて、もろくも富山市教祖の組織がくずれました。市教組の1つや2つつぶれたって、どうってことありません。第2、第3の組合のおかげで「民主主義」「自主独立の精神」を身につけた国民を世に送りだすことができたのなら、脱帽します。でも、その逆ではこまります。
福島原発の爆発事故も、原発推進派のひとたちが反対派や慎重派を力づくで排除した結果でないと証明できればよいのですが。