2010年12月21日火曜日

東京外語のころ(中)

「井上ポケット支那語辞典」巻末広告。A, b.
「井上ポケット支那語辞典」(文求堂、1939)の巻末広告。










「魯迅論文字改革」
a.表紙、b. もくじ。
魯迅が1934年に書いた文章8編(「門外文談」、「中国語文的新生」など)を
まとめ、「魯迅論文字改革」として、
1974年に文字改革出版社から発行したもの。







ペキン市街略地図 
もとは「北京城」と呼ばれ、
市街地全体が本格的な城壁でかこまれていたのですが、
戦後はその城がほとんど無くなるなど、すっかり変化しました。
「三条胡同」という名前はのこっているでしょうか?
「小沢公館」の「四合院」はどうなったでしょうか?





画像④「四合院」解説図 
「中日辞典」(小学館、1992)による。

部分の名称など、さらに詳しい解説を希望されるむきは、
「中国語図解辞典」(大修館、1993)をご参照ください。









思い出の教授たち
ひさしぶりに引っぱりだした「井上ポケット支那語辞典」(文求堂、1939)の巻末広告に、東京外語の先生たちの名前がならんでいるのを見つけました。そのとたんに、70年まえの恩師たちの姿がよみがえってきました。

支那語部の主任教授は宮越健太郎先生でした。先生は教育方針として、生徒に成績通知表をわたしませんでした。じぶんの成績をききにくる生徒がいると、「成績を心配するくらいなら、もっとしっかり勉強しろ!」としかりつけたそうです。

宮越先生が現代中国語講義のため、東大へ出張されるかわりに、東大から塩谷温教授が古典の講義にこられました。先生はいつも羽織袴姿で、悠然といすに着席。時に扇子を使いながら、朗々と「唐詩選」などを講義されました。そういえば、テキストなどもカバンではなく、たしか紫色のフロシキに包んでおられたように記憶しています。

当時いちばん張りきって精力的に授業を進めておられたのは、清水元助先生だったかと思います。教室で習ったのは北京官話(標準語)ですが、先生ご自身は広東語の研究もしておられたそうです

神谷衡平先生は、独特のイントネーションで文芸作品を朗読されました。
内之宮金城先生は、若くてハンサム。みんなから「希望の星」として期待されていましたが、まもなく軍に召集されました(イタリア語科の前田義則先輩と同期)。
諸岡三郎先生には、なんとなく「ダルマ大師」を連想させる風貌がありました。

包象寅先生からは、「急就編」をテキストに、きっちり正確に発音するよう教えられました。
とにもかくにも「まじめで几帳面」という印象でした。日本敗戦後どうしておられるか、気になっていましたが、先日たまたまネットで「1946年、東京中華学校長に就任」の記事を発見。ほっとしました。

英語の授業では、千葉勉先生の講義がユニークなものでした。
「この学校には、学問研究の気風がない。外国語の研究といっても、じつは外国人のモノマネをしているだけ。唯一自慢できるのは、わたしがやっている音声学研究室だけだ」。
毎回、ちょっと口をヘの字に曲げながら「東京外語批判」を展開されました。先生はもともと英国風紳士でしたが、あたりを叱咤激励する姿には、織田信長や伊達政宗などの武将を連想させる一面もありました。
先生の唇の上に豆粒ほどのイボ(ホクロ?)ができていました。それで、生徒たちがつけたあだ名が「You xiansheng[疣先生]」。you[疣]は優秀の[優]と同音です。

カナモジカイに入会
入学してまもなく、兄の紹介でカナモジカイに入会しました。中国語を書くときは漢字ばかりで書きますが、いっぱんの教科の講義はカタカナでノートしました。ひらがなでもよいのですが、カタカナのほうが速記にちかい速さでノートできました。もちろんヨコガキで、英語などとおなじく単語ごとにワカチガキします。
クラスの仲間からは「中国語を学びながら、カタカナで文章を書く、変なヤツ」といわれました。

中国の文字改革運動
 漢字の本場中国でも、当時すでに「文字改革」の運動がはじまっていました。それには「注音字母」「国語ローマ字」「ラテン化新文字」など、いくつもの流れがあり、はげしく論争していましたが、一致する点もありました。
「中国の発展が日本よりおくれたのは、教育の普及がおくれたからだ」
「漢字は表意モジなので、モジ数がおおすぎて、習得するのがむつかしい」
「漢語はいくつかの方言にわかれ、同一の漢字が地域によって別々に発音されている。共通語普及のためにも、カナやローマ字のような表音モジを採用すべきだ」など。

「注音符号」(漢字系統の表音記号)は、東京外語の授業にも採用されていました。また、神田神保町の内山書店には、「文字改革」関係の単行本や雑誌がつぎつぎ入荷していました。魯迅の「門外文談」や「中国語文の新生」なども並んでいました。

日本語の世界戦略とカナモジ
わたしが入会した当時、カナモジカイの会員や支援者の中には、いろんなタイプの人がいました。まず、理事長のマツザカ タダノリ[松坂忠則]さんは情熱の人。カナモジ運動の闘士・論客であり、また作家の山本有三さんとも親しくしておられました。

理事の中には、予備役の軍人さんもいました。陸軍工兵大佐のコウノ タツミ[河野巽]さんと海軍大佐のワカバヤシ[若林]さんなど。当時コウノさんは召集がかかっていたとのことで、軍服姿のこともありました。「現役時代、部下に対して、ビンタを張るなどの暴力行為をゆるさなかった」という評判でした。ワカバヤシ[若林]さんは、背広のにあう英国風紳士で、三菱電機の役員。ワカバ ヤシ[若葉椰子]というペンネームをつかっていました。

当時わたしは、兄とともに東中野駅ちかくに下宿。毎日中央線水道橋駅まで往復していました。ある日の朝、電車の中で軍服姿のコウノさんから声をかけられました。
「イズミ君でしたね」
コウノさんは、「日本語を海外にひろめる」戦略を立て、そのためのスタッフとして、中国語専攻のわたしに目をつけたようです。

コウノさんのお宅は、わたしの下宿から駅までゆく途中にありました。ガラス張りのサンルームがある「お屋敷」でした。コウノさんの娘さんがU大将の息子さんと結婚されたことから、やがて留守番がわりにコウノさんが住むことになったと、ウワサに聞きました。

週末になるとコウノさんをたずね、サンルームでお茶をいただいたり、新宿まででかけて昼飯をごちそうになったりしました。話題はいつも「日本語を世界にひろめる第一歩として、カナモジのテキストをつくること」でした。

夏休みを利用して中国旅行
東京外語にはいった年、夏休みの初日(1937.7.7)に、盧溝橋事件発生のニュースが流れました。日中戦争がはじまり、一般旅行者の中国渡航が禁止になりました。

それまで東京外語では、3年生の夏休みを利用して「中国旅行に出かける」慣行(?)がありました。入学当初から、先輩たちの体験話を聞かされ、「わたしもゼヒ…」と考えていました。もちろん、「旅費をどう工面するか」なども問題ですが、こんどは「どうしたら渡航禁止令をクリアできるか」が先決問題になりました。

苦肉の策として、東京にあった新民会事務所をたずね、相談しました。新民会というのは、 もともと協和会の流れです。「五族協和」をとなえる協和会が「満州国」政府をささえる組織だったように、新民会も華北地区で臨時政府をささえるために生まれた組織です。

さいわい、新民会事務所の青年Tさんのおかげで、「新民会の用件で渡航」というお墨付きをいただき、ようやく渡航許可が出ました。

大連~奉天~新京~北京
大連をふりだしに奉天(瀋陽)~新京(長春)~北京とまわりました。どこへいっても、だれか学校の先輩がおられるので、いろんな話を聞かせていただきました。

新京(長春)では建国大学の先輩から、ノモンハン事件(5月)の真相を聞かされました。それは「大本営発表」とは反対の「全面的な敗北」という深刻な現実でした。

北京では、東京事務所Tさんの紹介で、新民会顧問格の小沢開策さんをたずねました。お宅は、東城の三条胡同にある典型的な四合院で、「小沢公館」と呼ばれていました。(音楽家の小沢征爾さんが小沢開策さんの息子さんだったとは、つい最近になって知りました)。

さいごに、北京西郊の農村実験区で1週間すごしました。
気をよくして旅行しているうちに、しだいに大陸ボケしたというか、帰国したのは大幅に 9月へずれこんでからでした。兄に、きびしくしかられました。

2010年12月14日火曜日

東京外語のころ(上)

手さぐりで音韻学習

東京外語校章
 1899年制定。中央部の炬火と両側の翼を組み合わせたもので、炬火にLの文字が巻きつく。炬火は「世を照らす」意。Lはラテン語lingua(言語)の意。翼は、開設当時の8語学科を表わすとされています。


















「井上ポケット支那語辞典」とびら 
井上翠、1935年発行、1939年第25刷。発音表記にトーマス ウエード式ローマ字を採用。当時最新式の中国語辞典でした。

















同上辞典318ページ 
ご覧のとおり、たとえば、[岡]の発音(1音節)を表わすために「トーマス ウエード式ローマ字」、「ラテン化新文字」、「注音字母」、「カナモジ」計4通りの表記法が示されています。現行のローマ字つづり「漢語拼音方案」は、このあとさらに20年間議論をかさね、1959年にようやく制定されたものです。発音表記法を確定するまでにこれだけテマヒマかかったということは、その表記法にたよる中国語学習者にも、それなりの苦労が要求されたことになります。














東京外語へ入学
1937(昭和12)年4月、東京外国語学校(現東京外国語大学)支那語部文科に入学しました。
東京外語を志望した直接の動機は、身近にいた前田義徳(後にNHK会長に就任)先輩へのあこがれです。前田先輩は旭川地方裁判所で廷丁(廷吏)をしておられた方の息子さんで、旭川中学から東京外語イタリア語科へ進学、地元新聞社勤務のあと、朝日新聞社に入社、海外特派員として世界各地で活躍していました。

英仏独など、いろんな語学コースがある中で支那語(中国語)をえらんだのは、やはり時代の流れです。「満蒙は日本の生命線」というスローガンがさけばれ、「満州国」がつくられ、「満蒙開拓団」や「満蒙開拓青少年義勇軍」が送り出された時代でした。

支那語と中国語
いまはだれでも、どこでも「中国語」といいますが、当時はみんな「支那語」といってい ました。シナ[支那]というコトバは、ChinaやChineseとおなじく、正式な用語でした。「支 那学」という学問の分野もありました。ただし、シナ[支那]もChinaも、もともと外国人が つけた呼び名であり、中国人にとっては外国語・外来語ということになります。

では、中国人自身はどう呼んでいたか?[中国語]Zhongguoyu、[中国話] Zhongguohua、[華語]Huayu、[漢語]Hanyuなど、いろんな呼び方があり、それぞれちがったニュアンスをもっていました。どちらかといえば、日常会話では[中国話]といい、公式の場では[~語]といっていたようです。21世紀の現代でも、ほぼおなじ傾向ですが、ただ中国の中国語教科書などでは、[漢語]Hanyuに統一されているようです。

まずは、中国語の発音練習
日本語では、漢字で[日本]と書いて「ニッポン」もしくは「ニホン」とよみます。ただし、それは日本語の文脈の中での話です。中国人にむかって「ニッポン」「ニホン」といっても、[日本]という意味が通じません。「Riben」のように発音して、はじめて[日本]のことだとわかってもらえます。

さて、1年生の1学期は、朝から晩まで支那語(中国語)の発音練習をつづけました。道を歩いているときは、店のカンバンや電柱の広告などに書かれた漢字を、かたっぱしから中国語の発音でよむ練習をしました。

日本語と中国語とでは、音韻組織がまるでちがいます。中国人と会話したければ、「中国語を耳で聞いて、(翻訳せずに)すぐ中国語で返事できる」ように、じぶんの耳と口を訓練しなければなりません。それは、これまで日本語の音韻組織にあわせて訓練してきた耳と口を、こんどは中国語の音韻組織にあわせて訓練しなおす作業です。

漢字は、漢語(漢民族の言語)の音韻組織にあわせて作ったモジであり、基本的に漢字1字が漢語1音節に対応し、その1音節がそのまま1語になったり、造語要素になったりしています。ですから、一つ一つの漢字の発音練習が中国語の音韻感覚習得に役立つことはまちがいありません。

それにしても、目にはいる漢字をかたっぱしから中国音で発音してみるという作業は、たいへんなものです。まず、漢字の意味は見当がついても、中国語としての発音がわかりません。辞典をめくり、部首別や画数から発音をたしかめます。テマヒマかけておぼえたつもりでも、記憶として定着してくれません。1時間か1日後には忘れてしまいます。毎日、サイのカワラのくりかえしがつづきます。

効果的な学習法をさぐる
そこで、いろいろ考えてみました。
「なんとかして、もっと効率よく中国語音を習得できるような学習法はないか?」
「いくつかの単語をまとめておぼえられる方法はないか?」など。

まず第一の方法は、日本漢字音からぎゃくに中国語音を推定する方法です。たとえばアン[安・案・按]・カン[干・幹・肝]・タン[旦・担・胆]・リン[林・淋・琳・霖]などのように、日本漢字音の語尾がンと表記されるものは、「中国語音でも-n型」と推定するわけです。

「そんなの、アタリマエすぎる」といわれるかもしれませんが、これは だいじなポイントの一つです。というのは、中国語の音節語尾には-n型のほかに-ng型というものがあり、日本人の耳では、なかなか判別できないことがおおいからです。

たとえば、gan[干・幹・肝]とgang[岡・綱・鋼]、dan[旦・担・胆]とdang[当・党]、lin[林・淋・琳・霖]とling[令・鈴・嶺・齢]など。初心者の耳には、どれもみな語尾が「ン」音にきこえ、-n型と-ng型との区別がつきません。辞典でたしかめてみて、はじめて-n型と-ng型とに区分されていることがわかります。

中国音「-n型」は日本漢字音「ン型」に対応し、中国音「-ng型」は日本漢字音「~ウ型」または「~イ型」に対応しています。たとえばgang [岡・綱・鋼]の日本漢字音はカウ、dang[当・党]の日本漢字音はタウ、つまり「~ウ型」です。ding[丁・町・釘・頂・定・訂]の日本漢字音はテイ・チャウ、ling[令・鈴・嶺・齢]の日本漢字音はレイ・リャウ、つまり「~ウ型」とも「~イ型」とも解釈できます。

そこで、「語尾が-nか-ngかまぎらわしい漢語音」を判別するための実用的な対策として、つぎのような仮説(?)を設定してみます。
「日本漢字音がンで終わるものは、中国音語尾も-nと推定できる。語尾がイ・ウのものは、中国音語尾が-ngと推定できる」

音符をもつ漢字
第二の方法は、漢字の字形から発音を推定する方法です。漢字はもともと象形文字、つまり事物の姿をかたどるモジであり、直接発音を表わすことはありません。しかし、よく見ると、発音を表わすための符号、つまり音符をもつ漢字は、たくさんあります。1つの音符を5字も10字もの漢字が共有している例がありますから、「音符による漢字音習得法」はたしかに効果的な学習法といえます。

前記漢字の例で考えてみます。gan[干]は[干・幹・肝]の共通音符、dan[旦]は[旦・担・胆] の共通音符、ding[丁]は[丁・町・釘・頂・定・訂] の共通音符ということになります。また、dang[当・党]、ding[丁・町・釘・頂・定・訂]、gang[岡・綱・鋼]、lin[林・淋・琳・霖]、ling[令・鈴・嶺・齢]などについても同様です。

もちろん、中国語(漢語)学習の入門期ですから「~n型音節と~ng型音節の構成原理」とか、「漢語音変化の歴史と日本漢字音の対応関係」、「形声文字の実態」などについて、どれだけの予備知識があったわけでもありません。ただ「中国人のコトバを聞いてわかるようになりたい」「中国人に通じるコトバをおぼえたい」という一心で練習していただけです。

それだけのことですが、それがやがて「ヤマトコトバと漢語の音韻比較」「象形言語説」の発想法につながり、さらに「五十音図修正提案」「日漢英の音韻比較」「現代日本語音図試案」「日漢英共通64音図」までつながっていったことも事実です。

2010年12月7日火曜日

旭川中学のころ


渡部善次校長
1932(昭和7)年3月、旭川市立中央小学校を卒業。4月、庁立旭川中学校(現旭川東高校)へ入学。渡部善次校長・立花繁男教頭の時代でした。
渡部校長は、「じぶんの学力が十分でないと思ったら、むりに進級するよりも留年して基礎を固めするほうが有利だ」というのが持論でした。じっさいじぶんの息子さんにも留年させていました。

同期生のこと
同期に、野球のスタルヒン選手がいました。1年生のとき地区大会で優勝。甲子園初出場ということで、学校どころか町をあげてお祭りさわぎになりました。キャッチャーをつとめた西條敏夫兄は、「スタルヒンの投球を受けられたのはおれだけだ」と自慢していました。

同期生の中から2人も哲学者が出たのは意外でした。1人は武田弘道兄。中央小学校以来の遊び仲間で、わたしとおなじく小柄。チョロチョロ動きまわるので、「武田のチョロ」とよばれていました。生家が「武田医院」でしたから、おそらく彼もお医者さんになるだろうと思っていました。あとで「大阪市立大学哲学科教授」ときかされてビックリしました。

もう一人は斎藤忍随兄。東京大学文学部哲学科を卒業、北海道大学を経て東京大学文学部教授・同文学部長・名誉教授を歴任。ギリシア哲学の第一人者だそうです。生家が曹洞宗のお寺で、中学時代からなんとなく風格みたいなものがあり、みんなが一目置いていました。

栃木義正兄については、このブログのはじめ(11月9日)でもご紹介しましたが、小学生当時のわたしには「小学校の校長先生のお宅」という潜在意識があり、『栃木商店』へ買い物にゆくときは、いつもヒヤヒヤしていました。中学校でもおなじクラスになったことはなく、直接の交流はありませんでした。ただ、栃木兄が東京文理科大学に進学し、高校で地理の先生をしているという話は聞いていました。

ずっとあとのことですが、1991(昭和3)年『コトダマの世界…象形言語説の検証』(社会評論社)を発表したおり、1部贈呈したことがあります。その翌年、『北海道 集落地名地理』(567ページ)という大作を送っていただきました。わたしは「地理学」については門外漢ですが、「地名」には関心があります。この本の序文に『…「集落名称」を、その起源より分類したものであり、その分類の視点を地理的視点においた』とあるとおり、北海道におおいアイヌ語ゆかりの地名について、一つ一つ解説されています。送り状に「北海道を偲ぶ よすがにしてください」とありましたが、自称「エゾッコ[蝦夷子]」のわたしにとって、大切な宝物になっています。

東京にいる同期生たちが「旭三会(第30期)」というグループを組織し、定期的に親睦会を開いていました。中心になって世話をしていたのが花輪元治兄で、富山のわたしにも案内があり、数回出席しました。その席に斎藤大先生が顔を出していたこともあります。

校友会の機関紙に「カナモジ論について」投稿したことがあります。兄がカナモジカイの会員だったので、わたしも日本の国語・国字問題に関心を持ちはじめていました。

謹慎1週間
1936(昭和11)年、5年生1学期末のある日、わたしは作業科の作品提出をめぐって校則に違反したことから、「学級担任宅で1週間の謹慎」を命じられました。当日は学校から帰宅を許されず、そのまま構内の1室に収容。保護者の父が呼びだされました。帰りぎわ、面会をゆるされた父は、ただひとこと『カゼをひかないように』といっただけでした。

謹慎の場所は、たまたま学級担任の朝比奈進先生が病気静養中のため、副担任の水上勇太郎先生のお宅でということになりました。水上先生は3月に東京文理科大学を卒業、4月に赴任されたばかり。しかも、新婚そうそう。「新婚旅行をかねて、旭川へ来られた」とうわさされていました。

謹慎処分を受けてションボリしていたわたしは、水上先生と奥さまからとてもだいじにしていただきました。先生は、勉強づくえの高さを心配して調節したり、「毎日家の中で勉強ばかりしていては、健康によくないから」と、散歩に連れだしたりされました。

「校則違反」の内容については、A君との「共同正犯」であり、学校当局も「部外秘」としていたことなので、わたしがかってに公開することはできません。A君がどんな1週間を過ごしたかも、聞いていません。いずれにしても、水上先生ご夫妻にとっては「とんだオジャマ虫」だったかと思いますが、わたしにとっては「地獄で仏」、一生忘れられない、なつかしい思い出の1週間となりました。

事件について学校当局は、処分の内容はもちろん、事件の発生についても「部外極秘」の方針をつらぬいたようです。数十年後、友人からの年賀状にこんなメモがありました。
「あの時、君がたった一人でストライキをやったというウワサが流れた」

縁は異なもの
水上先生とは、そのごも意外な場所でお会いしました。
1回目は東京。先生は、わたしどもを卒業させた1935年3月、旭川中学校を退職、東京府立四中へ転勤しておられたのです。2回目は1941年ころ、北京日本中学校で。ここでも、校長は渡部善次先生でした。

                             
北京日本中学校のみなさん(「北京日本中学校校史」による)
(注)最前列中央左が渡部校長、右が水上先生.

そして3回目は1945年2月、門司港で偶然の出会いでした。わたしは結婚のため一時帰国、富山へ向かう途中。先生は「現地では危険が予想されるので、家族を内地へ引きあげさせ、単身で北京へ帰る途中」とのことでした。

「(専門に研究している)流体力学の分野から考えてみても、この戦争に勝ち目はない。じぶんが仕事に専念できるよう、家族を内地へ帰した」

それまでずっと先生を尊敬していたわたしですが、このコトバを聞いたとたん、先生の「愛国心」をうたがう気持ちになりました。「神州不滅」「連戦連勝」という「大本営発表」ばかり聞かされていたので、「世界情勢の中で、客観的に日本の現状を判断する」ことができなくなっていたのです。おはずかしい話です。

先生は数学とか流体力学が専攻とうかがっていましたが、コトバの問題についても関心を持っておられたようです。1991年9月、わたしが『コトダマの世界』を発表したとき、さっそくご感想をよせていただきました。

『…貴説は視覚特に「動」に着目した動詞→名詞の系統化であるように見受けられます。「静」に着目して名詞→動詞を考えたらどの様な結果がでるでしょうか。さて当節余りにも言葉の美しい響きが失われて行くようで気がかりです。特に「t」音が強い様で耳障りなのです。これは蛇足…』

先生ご指摘の「コトバの静と動」については、このあと「コトダマの世界」シリーズでとりあげてみたいと考えています。
先生は、2005(平成17)年5月11日「97歳にて永眠」されたとのこと。ご遺族の方からお知らせいただきました。