2010年12月7日火曜日

旭川中学のころ


渡部善次校長
1932(昭和7)年3月、旭川市立中央小学校を卒業。4月、庁立旭川中学校(現旭川東高校)へ入学。渡部善次校長・立花繁男教頭の時代でした。
渡部校長は、「じぶんの学力が十分でないと思ったら、むりに進級するよりも留年して基礎を固めするほうが有利だ」というのが持論でした。じっさいじぶんの息子さんにも留年させていました。

同期生のこと
同期に、野球のスタルヒン選手がいました。1年生のとき地区大会で優勝。甲子園初出場ということで、学校どころか町をあげてお祭りさわぎになりました。キャッチャーをつとめた西條敏夫兄は、「スタルヒンの投球を受けられたのはおれだけだ」と自慢していました。

同期生の中から2人も哲学者が出たのは意外でした。1人は武田弘道兄。中央小学校以来の遊び仲間で、わたしとおなじく小柄。チョロチョロ動きまわるので、「武田のチョロ」とよばれていました。生家が「武田医院」でしたから、おそらく彼もお医者さんになるだろうと思っていました。あとで「大阪市立大学哲学科教授」ときかされてビックリしました。

もう一人は斎藤忍随兄。東京大学文学部哲学科を卒業、北海道大学を経て東京大学文学部教授・同文学部長・名誉教授を歴任。ギリシア哲学の第一人者だそうです。生家が曹洞宗のお寺で、中学時代からなんとなく風格みたいなものがあり、みんなが一目置いていました。

栃木義正兄については、このブログのはじめ(11月9日)でもご紹介しましたが、小学生当時のわたしには「小学校の校長先生のお宅」という潜在意識があり、『栃木商店』へ買い物にゆくときは、いつもヒヤヒヤしていました。中学校でもおなじクラスになったことはなく、直接の交流はありませんでした。ただ、栃木兄が東京文理科大学に進学し、高校で地理の先生をしているという話は聞いていました。

ずっとあとのことですが、1991(昭和3)年『コトダマの世界…象形言語説の検証』(社会評論社)を発表したおり、1部贈呈したことがあります。その翌年、『北海道 集落地名地理』(567ページ)という大作を送っていただきました。わたしは「地理学」については門外漢ですが、「地名」には関心があります。この本の序文に『…「集落名称」を、その起源より分類したものであり、その分類の視点を地理的視点においた』とあるとおり、北海道におおいアイヌ語ゆかりの地名について、一つ一つ解説されています。送り状に「北海道を偲ぶ よすがにしてください」とありましたが、自称「エゾッコ[蝦夷子]」のわたしにとって、大切な宝物になっています。

東京にいる同期生たちが「旭三会(第30期)」というグループを組織し、定期的に親睦会を開いていました。中心になって世話をしていたのが花輪元治兄で、富山のわたしにも案内があり、数回出席しました。その席に斎藤大先生が顔を出していたこともあります。

校友会の機関紙に「カナモジ論について」投稿したことがあります。兄がカナモジカイの会員だったので、わたしも日本の国語・国字問題に関心を持ちはじめていました。

謹慎1週間
1936(昭和11)年、5年生1学期末のある日、わたしは作業科の作品提出をめぐって校則に違反したことから、「学級担任宅で1週間の謹慎」を命じられました。当日は学校から帰宅を許されず、そのまま構内の1室に収容。保護者の父が呼びだされました。帰りぎわ、面会をゆるされた父は、ただひとこと『カゼをひかないように』といっただけでした。

謹慎の場所は、たまたま学級担任の朝比奈進先生が病気静養中のため、副担任の水上勇太郎先生のお宅でということになりました。水上先生は3月に東京文理科大学を卒業、4月に赴任されたばかり。しかも、新婚そうそう。「新婚旅行をかねて、旭川へ来られた」とうわさされていました。

謹慎処分を受けてションボリしていたわたしは、水上先生と奥さまからとてもだいじにしていただきました。先生は、勉強づくえの高さを心配して調節したり、「毎日家の中で勉強ばかりしていては、健康によくないから」と、散歩に連れだしたりされました。

「校則違反」の内容については、A君との「共同正犯」であり、学校当局も「部外秘」としていたことなので、わたしがかってに公開することはできません。A君がどんな1週間を過ごしたかも、聞いていません。いずれにしても、水上先生ご夫妻にとっては「とんだオジャマ虫」だったかと思いますが、わたしにとっては「地獄で仏」、一生忘れられない、なつかしい思い出の1週間となりました。

事件について学校当局は、処分の内容はもちろん、事件の発生についても「部外極秘」の方針をつらぬいたようです。数十年後、友人からの年賀状にこんなメモがありました。
「あの時、君がたった一人でストライキをやったというウワサが流れた」

縁は異なもの
水上先生とは、そのごも意外な場所でお会いしました。
1回目は東京。先生は、わたしどもを卒業させた1935年3月、旭川中学校を退職、東京府立四中へ転勤しておられたのです。2回目は1941年ころ、北京日本中学校で。ここでも、校長は渡部善次先生でした。

                             
北京日本中学校のみなさん(「北京日本中学校校史」による)
(注)最前列中央左が渡部校長、右が水上先生.

そして3回目は1945年2月、門司港で偶然の出会いでした。わたしは結婚のため一時帰国、富山へ向かう途中。先生は「現地では危険が予想されるので、家族を内地へ引きあげさせ、単身で北京へ帰る途中」とのことでした。

「(専門に研究している)流体力学の分野から考えてみても、この戦争に勝ち目はない。じぶんが仕事に専念できるよう、家族を内地へ帰した」

それまでずっと先生を尊敬していたわたしですが、このコトバを聞いたとたん、先生の「愛国心」をうたがう気持ちになりました。「神州不滅」「連戦連勝」という「大本営発表」ばかり聞かされていたので、「世界情勢の中で、客観的に日本の現状を判断する」ことができなくなっていたのです。おはずかしい話です。

先生は数学とか流体力学が専攻とうかがっていましたが、コトバの問題についても関心を持っておられたようです。1991年9月、わたしが『コトダマの世界』を発表したとき、さっそくご感想をよせていただきました。

『…貴説は視覚特に「動」に着目した動詞→名詞の系統化であるように見受けられます。「静」に着目して名詞→動詞を考えたらどの様な結果がでるでしょうか。さて当節余りにも言葉の美しい響きが失われて行くようで気がかりです。特に「t」音が強い様で耳障りなのです。これは蛇足…』

先生ご指摘の「コトバの静と動」については、このあと「コトダマの世界」シリーズでとりあげてみたいと考えています。
先生は、2005(平成17)年5月11日「97歳にて永眠」されたとのこと。ご遺族の方からお知らせいただきました。

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