「井上ポケット支那語辞典」巻末広告。A, b.
「井上ポケット支那語辞典」(文求堂、1939)の巻末広告。
「井上ポケット支那語辞典」(文求堂、1939)の巻末広告。
「魯迅論文字改革」
a.表紙、b. もくじ。
魯迅が1934年に書いた文章8編(「門外文談」、「中国語文的新生」など)を
a.表紙、b. もくじ。
魯迅が1934年に書いた文章8編(「門外文談」、「中国語文的新生」など)を
まとめ、「魯迅論文字改革」として、
1974年に文字改革出版社から発行したもの。
ペキン市街略地図
もとは「北京城」と呼ばれ、
市街地全体が本格的な城壁でかこまれていたのですが、
戦後はその城がほとんど無くなるなど、すっかり変化しました。
「三条胡同」という名前はのこっているでしょうか?
「小沢公館」の「四合院」はどうなったでしょうか?
画像④「四合院」解説図
「中日辞典」(小学館、1992)による。
部分の名称など、さらに詳しい解説を希望されるむきは、
「中国語図解辞典」(大修館、1993)をご参照ください。
思い出の教授たち
ひさしぶりに引っぱりだした「井上ポケット支那語辞典」(文求堂、1939)の巻末広告に、東京外語の先生たちの名前がならんでいるのを見つけました。そのとたんに、70年まえの恩師たちの姿がよみがえってきました。
支那語部の主任教授は宮越健太郎先生でした。先生は教育方針として、生徒に成績通知表をわたしませんでした。じぶんの成績をききにくる生徒がいると、「成績を心配するくらいなら、もっとしっかり勉強しろ!」としかりつけたそうです。
宮越先生が現代中国語講義のため、東大へ出張されるかわりに、東大から塩谷温教授が古典の講義にこられました。先生はいつも羽織袴姿で、悠然といすに着席。時に扇子を使いながら、朗々と「唐詩選」などを講義されました。そういえば、テキストなどもカバンではなく、たしか紫色のフロシキに包んでおられたように記憶しています。
当時いちばん張りきって精力的に授業を進めておられたのは、清水元助先生だったかと思います。教室で習ったのは北京官話(標準語)ですが、先生ご自身は広東語の研究もしておられたそうです
神谷衡平先生は、独特のイントネーションで文芸作品を朗読されました。
内之宮金城先生は、若くてハンサム。みんなから「希望の星」として期待されていましたが、まもなく軍に召集されました(イタリア語科の前田義則先輩と同期)。
諸岡三郎先生には、なんとなく「ダルマ大師」を連想させる風貌がありました。
包象寅先生からは、「急就編」をテキストに、きっちり正確に発音するよう教えられました。
とにもかくにも「まじめで几帳面」という印象でした。日本敗戦後どうしておられるか、気になっていましたが、先日たまたまネットで「1946年、東京中華学校長に就任」の記事を発見。ほっとしました。
英語の授業では、千葉勉先生の講義がユニークなものでした。
「この学校には、学問研究の気風がない。外国語の研究といっても、じつは外国人のモノマネをしているだけ。唯一自慢できるのは、わたしがやっている音声学研究室だけだ」。
毎回、ちょっと口をヘの字に曲げながら「東京外語批判」を展開されました。先生はもともと英国風紳士でしたが、あたりを叱咤激励する姿には、織田信長や伊達政宗などの武将を連想させる一面もありました。
先生の唇の上に豆粒ほどのイボ(ホクロ?)ができていました。それで、生徒たちがつけたあだ名が「You xiansheng[疣先生]」。you[疣]は優秀の[優]と同音です。
カナモジカイに入会
入学してまもなく、兄の紹介でカナモジカイに入会しました。中国語を書くときは漢字ばかりで書きますが、いっぱんの教科の講義はカタカナでノートしました。ひらがなでもよいのですが、カタカナのほうが速記にちかい速さでノートできました。もちろんヨコガキで、英語などとおなじく単語ごとにワカチガキします。
クラスの仲間からは「中国語を学びながら、カタカナで文章を書く、変なヤツ」といわれました。
中国の文字改革運動
漢字の本場中国でも、当時すでに「文字改革」の運動がはじまっていました。それには「注音字母」「国語ローマ字」「ラテン化新文字」など、いくつもの流れがあり、はげしく論争していましたが、一致する点もありました。
「中国の発展が日本よりおくれたのは、教育の普及がおくれたからだ」
「漢字は表意モジなので、モジ数がおおすぎて、習得するのがむつかしい」
「漢語はいくつかの方言にわかれ、同一の漢字が地域によって別々に発音されている。共通語普及のためにも、カナやローマ字のような表音モジを採用すべきだ」など。
「注音符号」(漢字系統の表音記号)は、東京外語の授業にも採用されていました。また、神田神保町の内山書店には、「文字改革」関係の単行本や雑誌がつぎつぎ入荷していました。魯迅の「門外文談」や「中国語文の新生」なども並んでいました。
日本語の世界戦略とカナモジ
わたしが入会した当時、カナモジカイの会員や支援者の中には、いろんなタイプの人がいました。まず、理事長のマツザカ タダノリ[松坂忠則]さんは情熱の人。カナモジ運動の闘士・論客であり、また作家の山本有三さんとも親しくしておられました。
理事の中には、予備役の軍人さんもいました。陸軍工兵大佐のコウノ タツミ[河野巽]さんと海軍大佐のワカバヤシ[若林]さんなど。当時コウノさんは召集がかかっていたとのことで、軍服姿のこともありました。「現役時代、部下に対して、ビンタを張るなどの暴力行為をゆるさなかった」という評判でした。ワカバヤシ[若林]さんは、背広のにあう英国風紳士で、三菱電機の役員。ワカバ ヤシ[若葉椰子]というペンネームをつかっていました。
当時わたしは、兄とともに東中野駅ちかくに下宿。毎日中央線水道橋駅まで往復していました。ある日の朝、電車の中で軍服姿のコウノさんから声をかけられました。
「イズミ君でしたね」
コウノさんは、「日本語を海外にひろめる」戦略を立て、そのためのスタッフとして、中国語専攻のわたしに目をつけたようです。
コウノさんのお宅は、わたしの下宿から駅までゆく途中にありました。ガラス張りのサンルームがある「お屋敷」でした。コウノさんの娘さんがU大将の息子さんと結婚されたことから、やがて留守番がわりにコウノさんが住むことになったと、ウワサに聞きました。
週末になるとコウノさんをたずね、サンルームでお茶をいただいたり、新宿まででかけて昼飯をごちそうになったりしました。話題はいつも「日本語を世界にひろめる第一歩として、カナモジのテキストをつくること」でした。
夏休みを利用して中国旅行
東京外語にはいった年、夏休みの初日(1937.7.7)に、盧溝橋事件発生のニュースが流れました。日中戦争がはじまり、一般旅行者の中国渡航が禁止になりました。
それまで東京外語では、3年生の夏休みを利用して「中国旅行に出かける」慣行(?)がありました。入学当初から、先輩たちの体験話を聞かされ、「わたしもゼヒ…」と考えていました。もちろん、「旅費をどう工面するか」なども問題ですが、こんどは「どうしたら渡航禁止令をクリアできるか」が先決問題になりました。
苦肉の策として、東京にあった新民会事務所をたずね、相談しました。新民会というのは、 もともと協和会の流れです。「五族協和」をとなえる協和会が「満州国」政府をささえる組織だったように、新民会も華北地区で臨時政府をささえるために生まれた組織です。
さいわい、新民会事務所の青年Tさんのおかげで、「新民会の用件で渡航」というお墨付きをいただき、ようやく渡航許可が出ました。
大連~奉天~新京~北京
大連をふりだしに奉天(瀋陽)~新京(長春)~北京とまわりました。どこへいっても、だれか学校の先輩がおられるので、いろんな話を聞かせていただきました。
新京(長春)では建国大学の先輩から、ノモンハン事件(5月)の真相を聞かされました。それは「大本営発表」とは反対の「全面的な敗北」という深刻な現実でした。
北京では、東京事務所Tさんの紹介で、新民会顧問格の小沢開策さんをたずねました。お宅は、東城の三条胡同にある典型的な四合院で、「小沢公館」と呼ばれていました。(音楽家の小沢征爾さんが小沢開策さんの息子さんだったとは、つい最近になって知りました)。
さいごに、北京西郊の農村実験区で1週間すごしました。
気をよくして旅行しているうちに、しだいに大陸ボケしたというか、帰国したのは大幅に 9月へずれこんでからでした。兄に、きびしくしかられました。
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