2011年1月18日火曜日

東京外語のころ(下)

岐阜、長良川鵜飼い(1991年)



富山、トロッコ電車(1992年)



富山、黒部峡谷(1992年)



三重、伊勢神宮(1993年)




京都(1994年)




同級生の進路


入学した年(1937)の7月7日に日中戦争がはじまり、卒業した年の12月8日に太平洋戦争がはじまる。そんな戦争の時代でした。入学当時は35名いた同級生が、召集などで、卒業時には25名ほどになっていました。

同級生の就職先は、陸軍・海軍・運輸・通信・商社などいろいろですが、すべて国家総動員体制に組みこまれていったわけです。


外語クラス会
戦後,ようやく世間が落ちつき、互いに連絡が取れるようになって、楠田兄を中心にクラス会の連絡網ができました。
1971年3月13日、卒業30年記念クラス会を開催。会場:市谷会館(新宿区本村町防衛庁共済組合)。準備委員:楠田・間篠・大沢。

その後、当番制で地方に出かけての一泊旅行会にまで発展(上掲のスナップ写真を参照)。しかし、やがて高齢化のため、東京中心の食事会に。そして、自然解散。


同級生の消息
わたしは地方に住んでいるので、クラス会で顔を合わせるのと、年賀状を交換すること以外は、ほとんど情報源がありません。それでも、わかっている消息をまとめてみます

合場信次 日清製粉(株)取締役。商社マンとして全国各地で勤務。取引先を接待する仕事が多く、小唄・小ばなしなど宴席を盛り上げる芸を習得したそうです。また、日清製粉という会社の関係から、皇室の裏話なども聞かせてもらいました。1985年クラス会幹事。
2007年12月23日死去。
大澤未知之助 元雄山閣編集長。1990年クラス会(柴又帝釈天)の当番幹事。
富山県出身異色の評論家玉川信明さんとは共通の知人。わたしが「コトダマの世界」出版について相談したとき、あちこち出版社に紹介したりしてくれました。
太田誠 同盟通信社海外特派員として活躍。数年来身体不調で静養中のところ、1989年6月24日死去。
木村稠 戦後、税務署に勤務。退職後、税務事務所を開設。1993年クラス会(鳥羽・伊勢)当番幹事。
楠田太郎 4歳ほど年上。在学当時から老成した感じでした。外語卒業後は陸軍に勤務。戦後、自衛隊に勤務。1960年の年賀状には「この度東部方面資料隊長を命ぜられ…」

戦後、クラス会組織の中心。仲間から「オンタイ[御大]」と呼ばれていました。

本人は鹿児島県出身。誰が見ても「薩摩男児」。ただし、人によっては「村夫子」とか「いなかの村長さん」と呼ぶことも。対して、奥さんは福岡県出身の博多美人。このミスマッチが、じつはみごとなハーモニーをつくりだしていました。
戦後しばらく、共産党が支配する大陸中国と国民党が支配する台湾中国とがはげしく対立し、その対立抗争が日本国内にまでもちこまれていました。中国語の学界でも、「台湾を訪問したものは、中国大陸へ行けない」、「中華人民共和国を訪問したら、台湾へ行けない」といわれていました。そんな流れで、楠田兄は毎年のように台湾を訪問しながら、中国本土を訪問せず、イズミは十数回中国旅行をつづけながら、台湾へはいっぺんも行ったことがないというのが現実です。
2002年1月、86歳にて永眠。

篠原弘脩 1989年クラス会(信州)の当番幹事。俳句が趣味。
柴垣芳太郎 在学当時、教室の仲間と相談し、学校側の了承を得て、教室内に「文庫」を設置(「中国文庫の設置」TONGXUE第3号、同学社、1992春を参照)。
バスケットボール部に所属。
卒業後、海軍に勤務。たまたま阿川弘之さんといっしょで、毎日暗号解読が仕事だったとのこと。戦後、南山大学を経て、竜谷大学教授。また北陸大学教授。晩年は、とくに老舎の研究に全力を尽くしておられたようです。1991年クラス会(長良川鵜飼い)の当番幹事。
 <柴垣兄からいただいた作品>

「毛沢東語録の語彙」龍谷大学論集第386号抜き刷り、1968年。
「中英日対照世界の自然科学者名」 龍谷大学論集第414号抜き刷り、1979年。
「『老舎の年譜』改訂試稿(上)」 龍谷紀要第4巻第2号抜き刷り、1982年。
「老舎の家族」 同上第5巻第2号抜き刷り、1983年。
「老舎著作年表」 同上第9巻第2号抜き刷り、1987年。
「老舎著作解題(その1)」 北陸大学紀要第15号抜き刷り、1991年。
千田金造 在学途中に応召。兼松商事(株)に勤務。1990年10月17日死去。
中村四五六 運送会社を経営。「豪放磊落」を絵にかいたような人物でした。
1977年死去。

橋内武道 まじめで、几帳面な優等生。外語在学の4年間、ずっと中学生時代のランドセルを使っていました。卒業後、陸軍憲兵学校の教官。戦後は、読売新聞社外報部勤務を経て、明星大学教授、また亜細亜大学教授。1995年クラス会(東京)当番幹事。
<橋内兄からいただいた作品>
「趙元任博士:わたしの言語的自伝」(仮訳) 1976年。手書き原稿コピー。
「中国の知識人と日本」 部報めいせい2月号抜き刷り、1984年。
「『源氏物語』の中国語訳と林文月教授」明星大学研究紀要、人文学部第20号抜き刷り。1984年。
「橋内武道教退職記念誌」 明星大学中国語研究室、1991年。

久松満秀 教室では、わたしの前の座席でした。山形県出身。戦後、郷里の自治体に勤務。


間篠源太郎 1980年クラス会(市川)の当番幹事。2007年2月永眠。
村上和雄 商社勤務。1980年クラス会(市川)の当番幹事。2007年2月永眠。

以下、イズミ当てハガキから。

「愚公会(中国語研究サークル)に参加して3年半あまり…」(1,975)


「去年、北京で3泊。軍の幹部が私用に車を駆って百貨公司へ女房づれで行っているのを見かけて、何ジャイナと思いました」(1980)
「日本と中国との世界観の断絶の認識が不徹底なままで、日中友好というスローガンを叫ぶことには、以前から危惧の念を抱いていました」(1981)

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