2010年11月30日火曜日

死亡者長義の来歴

…三男を亡くした父親のメモ…




<まえがき>
 先日父長蔵の遺品を整理していたところ、「死亡者・長義の来歴」というメモが見つかりました。28歳の若さで亡くなった3男長義(1923~1951)の1周忌をまえに、親として痛恨の思いをつづった追悼メモです。半紙をタテ長の二つ折りにして使用。5ページにわたる長文です。これだけの追悼文をもらった長義は、4人きょうだいの中で一番の幸せものかもしれません。
父はながく刑事裁判の予審部門で書記を勤め、事件の記録調書をつくるのが仕事でしたから、このメモも「記録調書スタイル」になっています。ほんとうは「原文のまま」ご紹介したいところですが、それではいまの若い方々に読んでいただけそうにありません。そこで思いきって、現代口語文スタイルに書きなおしてみました。1人でもおおくの方々に読んでいただければ、父も弟も喜んでくれると思います。タイトルは原文のままにして、サブタイトルを追加。1~7各項の見出しに、「生い立ち」などの文句を追加しました。

死亡者・長義の来歴

1. 生い立ち
大正12年11月13日午後、泉家第5代目長蔵の3男として、同年長蔵が新築した北海道旭川市8条通り16丁目左4号の自宅で呱々の声をあげました。生長するに従い、旭川市大成小学校に学び、6年の課程を終え、ついで同市所在の北海道庁立旭川中学校に入学、所定の5年の課程を卒業し、さらに進んで東京都品川区大井町所在の東京都立高等工業専門学校に入学、所定の課程を1回も滞りなく卒業したものであります。

2.就職・召集・敗戦
卒業後、横浜市港北区吉田町所在の安立電気株式会社吉田分工場(本社、東京都港区麻布広尾町)に奉職。分工場付近の早淵(?)寮から通勤。仙北屋さんを部長とする同会社計器部で作業していました。
昭和19年11月に召集され、宮城県石巻市の暁部隊に入隊。死線を超えて訓練終了。移送されて、四国愛媛県八幡付近に駐屯。専ら軍務にいそしんでいました。
ところが、昭和20年8月15日の終戦を迎え、敗戦軍人の汚名の下に、同年9月13日、哀れなる姿で、当時私が住んでいた北海道天塩国中川郡中川村市街地所在の名寄区裁判所中山出張所(登記所)に突然帰宅しました。軍の階級は伍長でした。

3.復職した会社が解散
 安立電気株式会社は、大東亜戦争たけなわのころは麻布の本社、吉田分工場、名古屋分工場をあわせ、約1万5千の従業員を擁する大会社でありました(中でも吉田分工場はその大半を占めていました)。
戦争終結とともに敗戦の余波を受け、会社は漸次衰微していきました。長義は昭和20年11月復帰を命ぜられ、ふたたび大志を抱いて上京したものの、会社は次第に整理のやむなきに至り、同23年ついに解散し、従業員も四散するに至りました。

4.会社の再建をめざす日々
 本社は第2会社を設立し、麻布に工場を置き、わずか四~五百人の従業員を雇用し、細々と誕生しました。長義等は同志と共に、当時の取締役で吉田工場の場長だった仙北屋さんを社長に仰ぎ、本当に気の合ったもの十五、六人が株主となり(長義もその1人)、安立電気会社の諸機械および安立なる名義をそのまま譲り受け、ここに安立計器株式会社を設立しました。事務所および工場を東京都目黒区東町48番地に置き、約五十人の従業員を雇用し、仙北屋社長、杉本副社長、篠原総務部長、浜中販売部長、栗田技術部長等を中心に、孜々営々として会社の発展に努めていました。
ところが25年5月ころ、栗田部長が家庭の事情から止む無く退社し、仙台市の自宅へ帰られたため、長義は技術部長の役を受けることになりました。彼は社会奉仕の精神に燃え、方々無線方面をも研究していました。
毎日(彼が終戦後復帰と共に移った)横浜市港北区南綱島町676番地の興亜寮(後に清和荘と改名)から東京まで通勤。ほとんど昼夜を分かたぬ勤務ぶりをしていました(そのことは、寮在住の主婦たちの言葉から分かります)。
 たまたま25年6月15日、朝鮮に勃発した動乱を期にして、全国の経済界は一時に好況を示し、彼の会社(計器会社)も漸次好況を呈すると同時に、彼の技術もますます必要の度が高まっていました。

5.過労から発病・入院
 ここで彼はついに業務の多忙に追われ、無理をした結果、6月ころから身体に異常を呈していたので、諸所の名医に診察を受けたものの、既往症の肋膜にばかり気をとられ、医師も真の病気を発見することができず、そのあいだに病魔は遠慮なく亢進をつづけていました。
25年11月になって、品川区平塚町の昭和医科大学付属病院泌尿器科主事医長篠原倫二氏から、「腎臓結核で、多少手遅れの疑いもあるが、手術で回復できる」との診断を受け、その準備をしていたのですが、なにぶん同病院に空室がないことから、ずるずると約1ヶ月間、会社に通勤しながら通院し、療養に努めるという状態でした。
 かろうじて12月28日、第101に号室に入院、ベッドの人となりました。知らせにより駆けつけた愚妻は、26年1月4日から専心看護にあたりました。

6.薬石効なく
 その後、一進一退の病状で、3月26日到着した私に対し、28日、篠原医師から「あー、泉さんのお父さんですか。よいところに来てくださいました。しかし、泉さんには困りました。実に申し訳ないことですが、私ども医者としては、あらゆる手段を尽くし、できるだけの治療をしたのですが、今となってはほんとうに如何とも致し方がない。この上は、時期を待つよりほかはないが、マー急なこともあるまいと思う」と申されました。
私はこの言葉を妻や本人に打ち明けることはできず、ひとり黙々として胸を押さえていたのですが、二日間ばかりは、ほとんど前後不覚のような気持ちでいました。そのあとは、あの病人の顔や身体がなんとなく尊いものの存在のように思われ、ことのほか哀愁の念が深まりました。
妻と共に寝食を忘れて看護をつくしましたが、日に日に身体の衰弱が高まり、また本人も相部屋より個室のほうがよいというので、第106号の個室に移り(4月3日午後4時半ころ)、さらにていねいな看護を続けましたが、なんら効なく、ついに(昭和26年4月)5日午後1時20分、私ら両親と兄長嘉と病院の医師および看護婦に見守られ、最後の息を引き取りました。ついになんの遺言もしないまま瞑目しました。

7.3回目の死線、超えられず
 彼は以前12歳のころ、銃剣術の稽古に熱中し、選手となった結果、ついに肋膜炎を患い、7ヶ月間病床につきました。ずっと続けて往診してくださった佐竹医師の「薬石効有り」、なんとか回復することができました。これが第1回の「死線を超えて」です。
 軍人として、さらに第2回目の死線を超えたのですが、今回の第3回目はついに越えることができず、そのまま往生してしまったのです。
 彼は、剣道初段の免状も持っていました。

<追記>
一周忌勤行
 昭和27年3月5日(家内上京の都合により、1ヶ月繰り上げ)快晴。



「死亡者・長義の来歴」原本

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