2010年11月16日火曜日

兄・姉・弟のこと

兄、タケヨシ[長嘉]
兄の思い出
兄は、学生時代からのカナモジカイ会員でした。カナモジカイ会長伊藤忠兵衛氏の意向で、富山地方鉄道の駅名をカナガキにする企画に参加したことがあります。

カナモジカイ青年部の仲間が東京の銀座通りでカナモジ運動の街頭宣伝をやったこともあります。わたしは金魚のウンコみたいにくっついていって、ウロウロしていました。まだ「銀座の柳」があり、夜店が並んでいたころの話です。

わたしにとって兄の存在は、時には父親の代理・後見人であり、時には人生の先輩・師匠でもありました。わたしが帰国後、無一文の身でいきなり「富山で書店を開業したい」といいだしたときは、雑誌の仕入れ先を紹介するなど、親身になって世話してくれました。


兄は、わかいころから俳句をやっていました。1998年、長男の妻公美さんの協力で句集「泉たけよし句集(粗案)」をつくりました。そのマエガキで、こう述べています。
「俳句暦は、決して短いものではない…教えを受けた先生は、上林白草居(草主宰)、富安風生(若葉主宰)、清崎敏郎(若葉主宰)、有働亨(馬酔木同人)の方々…時代的には、昭和11年から平成5年頃まで…結社誌などに掲載された句を、以下、年代別に拾ってみる」

その開巻第2句目に、つぎの1句がありました。
 弟の上京の日の春の雪  (注)1937(昭和12)年春、受験のためオキナガ上京。
家族関係の句を、もう1句ご紹介します。
 はばからず妻のあとつく五月かな No. 265 (注)父とよく似た愛妻家でした。2003(平成15)年3月10日、米寿を目前にして亡くなりました。


泉長嘉 プロフィール (この項、主に長女るり子さんの資料により作成)
1915(大正4)7月15日、旭川区(現旭川市)で生まれる。
旧制旭川中学校(現旭川東高校)を経て、1937(昭和12)年、中央大学法学部を卒業。
商工省(元通商産業省、現経済産業省)に就職。
戦争末期、軍属として香港に派遣され、1945年、敗戦により抑留される。
1946(昭和21)年、帰国。商工省繊維局紙業課に復職。
1947(昭和22)年、翁ハル(翁久太郎の妹)と結婚。
1952(昭和27)年、長男進誕生。
1954(昭和29)年、長女るり子誕生。
1962(昭和37)年、通商産業省中小企業庁勤務。
1970(昭和45)年、(課長職)退職。小規模企業共済事業団に就職。営業部長として、全国組織を固めるため東奔西走。
1973(昭和48)年、監事に就任。
1985(昭和60)年、小規模企業共済事業団を退職。
 秋の叙勲で勲四等瑞宝章を受章。

趣味 水墨画(画号、墨泉)。
   俳句(俳号、泉たけよし)。社団法人俳人協会会員。『馬酔木』に寄稿。





姉、エイコ[栄子]


姉の思い出
姉、栄子は、4人きょうだいの中で、ただ1人女の子として生まれ育ちました。まだまだ男女差別のきびしい時代でしたから、それだけ苦労もおおかったかと思います。わたしにとって、心のやさしい姉でした。

道庁立旭川高等女学校を卒業したあと、市内の百貨店に勤務。女性が職場に立つことがめずらしく、「職業婦人」というコトバがはやりはじめた時代でした。
地方公務員片桐正男氏と結婚。3人の男子の母となりました。
1971(昭和46)年3月29日に亡くなりました。






弟、ナガヨシ[長義]
弟の思い出
弟、長義は、東京都立高等工業専門学校で電気工学を学び、応召の時も兵科は通信兵でした。乗るはずの飛行機がなくなったため、船舶兵に転科。1945年2月、わたしと信子が北海道へわたる途中、松島湾まで面会にいったところ、弟は「毎日小船に乗って敵前逆上陸の演習をしている」といっていました。「大日本帝国敗戦」まで半年のことです。

戦後の弱電ブームで活躍が期待され、婚約者もきまっていたのですが、病にたおれ、1951(昭和26)年4月5日、29歳の若さでなくなりました。4人きょうだいの中でもっとも心やさしい好青年でした。











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