2010年11月9日火曜日

父母の思い出

旭川の家
わたしは1920(大正9)年2月25日、泉家の次男として生まれました。父長蔵は裁判所の書記。母ヤイは専業主婦。旭川市7条16丁目の自宅に、父母と兄・姉・弟と一家6人が住んでいました。たしか西どなりのお宅が鋳物師さんで、ニワトリも飼っていました。東どなりは下宿屋さんで、中学校美術科のU先生が住んでおられました。また町内の一角に、「栃木商店」という文房具屋さんがありました。旭中同期の栃木義正兄の実家です。






父、泉長蔵
父の思い出
まだ小学校入学まえ、役所まで父のベントウをとどけたことがあります。通用口からはいったところで、職員のひとりに「お父さんの名前は?」ときかれ、「チョーゾーです」とこたえてしまいました。いつも母親から「じぶんの名前はオキナガ」、「父親の名前はチョーゾー」と教えられていたからです。

父は毎年、春はワラビとり、秋はブドウがりに連れて行ってくれました。姉は留守番のこともありましたが、男の子3人はいつも全員参加でした。山ブドウを摘んで家に帰ってくると、こんどは母も姉もみんな総動員でブドウ酒づくりにとりくみました。ブドウの実を1粒ずつむしりとり、カメにいれ、焼酎をくわえて発酵させました。

富山~東京~旭川
富山県立山町で農家の長男だった父が、いつ・どうして北海道旭川に移り住むようになったのか、くわしいことはわかりません。まわりから聞いた話では、父の少年時代に親が知人の連帯保証人となったことから、おおきな借金をかかえこみ、田畑を手ばなすはめになったのが原因のようです。

のこされた田んぼを親類に耕作してもらい、上京して真木男爵家に書生として住みこませていただきました。日本山岳会会長をつとめた真木有恒男爵のお邸です。

そのご、別府弁護士を頼って旭川へ移住。やがて旭川地方裁判所の雇員。ついで試験に合格して、ようやく正式に書記として任用されました。

父は、3人の息子たちをつぎつぎ東京の学校で勉強させるため、身を粉にしてはたらきました。裁判所の予審部門に勤務したのも、出張がおおく、比較的収入がおおかったからで、ナリフリかまわず金をかせぎ、息子たちへの仕送りにつぎこんだわけです。
裁判所の書記を退任したあとも、上富良野の登記所などに勤務していました。

「先祖代々の土地」
戦後、父は北海道から引きあげ、富山へもどりました。農地解放令の施行で、不在地主と認定されれば、わずかに残っていた「先祖代々の土地」を手放さねばならないことになる。なにより、そのことが心配だったようです。

この件は、もともと親類同士のことでもあり、不在地主ではないという解釈で、なんとか話がおさまったようです。結局は、父の死後兄が相続した段階で、耕作者に売りわたすという形で幕がおりました。東京にいた兄が、わたしと相談したうえでの決断です。時代のながれですから、墓の中の父もゆるしてくれると思います。

晩年の父
富山へもどってきた父母は、わたしどものところで数年間同居したあと、妹の中山テイさん (市内小泉町) 方で数年、さらに立山町六郎谷の翁久太郎さん宅の留守番役として数年すごしました。(六郎谷の翁家は、兄長嘉の妻ハルさんの実家、また翁久允さんの本家です)
そのあと、東京の兄のところ(小平市)へ移転しました。

4人の息子や娘たちを育てるために一生はたらきつづけた父ですが、退職後もできるかぎり自立の道をさぐっていました。わたしどもと同居していたときも、「わかいものの生活をじゃましないように」と気をつかっていました。

六郎谷の翁久太郎さん宅に留守番役として住んでいたときは、姻戚同士ながら、きちんと契約書をかわしていました。わたしは偶然その文書を見かけただけで、内容までチェックしたわけではありませんが、「キチョウメンな人だったな」とひそかに感心した記憶があります。

浄土真宗の門徒で、富山にいたころは、散歩がてら別院まで説教を聴きに行くのを楽しみにしていました。たいていは、中山テイ叔母といっしょでした、
報恩講の時季など、上市町浄徳寺佐々住職さんのお供をして、あちこちまわっていたこともあります。

写真は、退職後富山へもどり、72歳で立山に登ったときのもの。夏休み時期で、たくさんの人が来ていましたが、いちばん高齢者の部類だったようです。

本籍地は、富山県中新川郡立山町沢端57番地。住所は東京~旭川~上富良野~富山~東京と変更しましたが、本籍地だけは移そうとしませんでした。
1889(明治22)年1月15日、父長三郎と母ヤイの長男として生まれ、1969(昭和44)年12月10日、81歳で亡くなりました。先祖代々の墓に眠っています。






母、泉ヤイ
母の思い出
母ヤイは、1896(明治29)年、立山町沢新、村崎家の長女として生まれました。戸籍簿にも「ヤイ」となっています。ヤエ[八重]の方言かと思われます。
父の母の名も「ヤイ」、妹の名は「テイ」、兄の妻の名は「ハル」。女性の名前は、カタカナ表記が流行していたのかもしれません。

母は小学校を出ただけで、無学の女性でした。母からのてがみは、いつもひらがなばかり。ところどころに漢字がまじっているだけでした。

父も母も教育には熱心でしたが、「勉強しなさい」といわれた記憶がありません。わたしが夜おそくまで机に向かっていると、母から「はやく寝なさいよ」といわれました。親バカというか、なにがあっても最後の最後までこどもを信じきっているようすでした。

母と娘の女同士
こどもが4人もいて、たいへんにぎやかな家庭でしたが、男の子3人がつぎつぎ東京へ出て行ってしまったので、母はしだいにさびしい思いをしたことと思います。ただ1人姉栄子だけ北海道にのこりました。ご主人が地方公務員なので転勤することはありましたが、その範囲は道内にかぎられていました。出産や育児などで、母と娘の女同士、相談したり、手伝いに出かけたりしていたようです。

母は、7~8歳年上の父にベッタリよりかかって生きていました。父のほうも、心臓弁膜症という持病をかかえた母を、だいじにかばっていました。こどもの目から見て、仲のいい夫婦でした。母は1964(昭和39)年12月23日、68歳で亡くなりました。

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