2011年2月15日火曜日

華北交通のころ④


八路軍との出会い



居庸関跡

1981年撮影。道路がりっぱに舗装されるなど、すっかり現代的な観光地に変化していました。


八達嶺周辺

これも同日撮影。長城線近くの風景は、1,945年当時とあまり変わっていない感じでした。


北京周辺地図(「中華人民共和国分省地図集」による)

1945年12月下旬から翌年2月にかけて、涿鹿県~承徳間を往復しました。新保安~懐来~延慶~永寧~四海~瑠璃廟~湯河口~長哨営~虎什哈~灤平~張百湾~灤河~承徳のコースです。


青竜橋のYさん
天津(塘沽)の陸軍貨物倉庫にいたとき、Yさんから「張家口へもどらないか」とさそわれました。「しばらく中共八路軍あるいはソ連の流儀を学習するのも、日本再建のために役立つだろう」と考えて、Yさんといっしょに行動することにしました。

Yさんは、青竜橋(八達嶺の南)の工務段で保線を担当。静岡県焼津の出身で、清水の次郎長とも縁があり、また中国の地下組織チンバン[青幇]の会員でもあるとのことでした。

Yさんは在職中、八路軍と交渉して担当区間の線路の安全を確保してきました。八路軍がわの要求(悪質な地域ボスの排除、医療器具や資材の調達など)を会社や軍の上層部に伝えて受けいれさせ、八路軍にも区間線路を破壊しないことを約束させていました。



八達嶺を越える
敗戦から2か月、10月なかばになっても、日本軍の兵士が武装したまま、八達嶺の関門を警備していました。そんなある日、わたしは中国人に成りすまし、検問所を通って八路軍地区にはいりました。Yさんは、別ルートを回り道していったのですが、わたしは顔がバレていないので、正面突破をこころみたわけです。いうなれば「密出国」。ワカゲノイタリ。もう一度やれといわれても、とてもできません。

検問所では、小銃のさきに銃剣をつけた2名の日本軍兵士が、通行人を検問していました。敗戦国の兵士が、戦勝国の中国農民たちに最敬礼をさせ、所持品検査をしていたのです。わたしの前にいた老人の荷物検査中に、兵士がなにか一品没収しました。老人は「それは孫のために買ってきたお菓子だから…」と抗議しましたが、兵士は知らん顔。「ヅオー(行け)!」と、どなりつけてオシマイ。

「そんなミットモナイことをするな!」と叫びそうになりましたが、じっとガマン。ふかふかと最敬礼をして、身体検査を受ける。それだけで無事検問所を通過しました。

そこから数百メートル先の山かげに八路軍の兵士が、銃をさかさに肩にかけて立っていました。その八路軍兵士の目に、わたしの姿が「不審者」と映ったようです。ただちに身柄拘束。詰所まで連行され、そこで朱隊長に連絡が取れ、解放されました。

じつは、まえにいちどYさんの案内で、天津から別ルートで八路軍地区にはいり、朱隊長に会っていました。朱隊長は保定軍官学校出身の青年将校。わたしが中国語を話せるときいて、ねっしんに語りかけてきました。朱隊長の目的は、「八路軍による、日本軍の武装解除」だったようです。


八達嶺の日本軍警備隊
それから数日後、Yさんといっしょに八達嶺の日本軍警備隊長をたずねました。Yさんから「八路軍による武装解除をうけてほしい」という八路軍の意向をつたえるためでした。具体的な内容は記憶していませんが、結果としてYさんの和平工作は失敗におわりました。


兵舎うらのラクガキ
ひとつだけ、今でもはっきり思いうかぶ光景があります。警備隊長との話しあいがおわって、かえりぎわに兵舎のまわりを見てあるいたときのことです。便所のうらがわのドロカベに、こんなラクガキを見つけました。

 山のあなたの空遠く    「幸」住むと人のいふ。
 噫、われ人と尋めゆきて、  涙さしぐみかえりきぬ、
 山のあなたになほ遠く   「幸」住むと人のいふ。(カール・ブッセ作、上田敏訳)

ここの警備隊は、全員が幹部候補生とのこと。敗戦から2か月がすぎ、なおも国境警備の任務をおわされる兵士たちのムネのうちをのぞきみる思いがしました。



ソ連兵の姿なし 
張家口鉄路局を訪問したとき、ずばり質問してみました。
「このあたり、ソ連軍兵士の姿が見えないようだが、実状はどうか?」
「たしかに、ソ連軍はちかくまで来ました。しかし、ここは中国ですから、中国人自身でまもります。そういって、引きとってもらいました。」
わたしは「なるほど。八路軍にもいいところがあるな」と見直す気持ちになりました。日本軍撤退からわずか2か月、八路軍は鉄道人はじめ住民の支持を固めている様子でした。


日本人民解放連盟
八路軍地区の日本人は、「日本人民解放連盟」という団体に組織されていました。もと日本軍人で捕虜になった人のほか、もと警察官・鉄道員・会社員など、いろんな人がいました。
わたしの場合は、「気がついたら、いつのまにか日本人民解放連盟の一員とされていた」というのが実感です。

「強制労働」はありませんでした。そのかわりというか、毎日のように「学習会」がひらかれました。こちらも、「祖国再建の道をさぐるためには、なんでも勉強してみよう」と、積極的に参加しました。テキストは、たしか「中国共産党小史」というような名前でした。社会主義・共産主義など、名前だけは知っていても、まともに自分の問題として考えたことがなかったのですが、こんどは真剣に議論しました。そもそも「討論する」ということが、はじめての経験でした。


生活検討会
「日本解放連盟」全体でどれだけの人数だったかは知りません。わたしたちの集団は80人ほどだったかと思います。ある日、全員が集まって(建前は自由参加)、「生活検討会」が開かれました。集団のリーダーの「日ごろの指導ぶり」について、自由に質問したり、批判したり。まるでツルシアゲ大会の感じ。わたしには、生まれて初めての経験、想像もつかないことでした。


国共内戦、承徳へ移動命令
「国共内戦がはじまったので危険。承徳まで移動せよ」という命令が出ました。
1945年12月24日(?)から翌年2月にかけての移動(放浪?)がはじまりました。前掲地図にあるとおり、涿鹿~新保安~懐来~延慶~永寧~四海~瑠璃廟~湯河口~長哨営~虎什哈~灤平~張百湾~灤河~承徳のコースです。
冬の寒空での強行軍。ある日、山越えの道がつづき、疲労のため、百歩ほど歩いては一服する状態。途中で予定を変更、山中の部落で宿伯。食事はコーリャンのカユでした。
瑠璃廟あたりで、瑠璃河という小川をわたりました。「瑠璃」は、ガラスのこと。日本の川でいえば、「タマ川」と呼ぶ感じ。中国ではめずらしい清流でした。
承徳の手前、灤平で数日間滞在。強行軍でつかれた体を休め、粟餅で正月を祝いました。そのあと1月11日、ようやく承徳へ着いたとたんに、帰還命令が出ました。
「国共停戦。張家口へ帰れ!」



八路軍の評判(承徳)
灤河のほとりに毎朝市が立っていました。そこでは、いろんな情報が飛びかっていました。
「ソ連の兵隊が来て、山のてっぺんまで、草一本も残さずかっぱらっていった。」
「八路軍は、そのソ連軍とグルだ。」
「1週間以内に、国民党の軍隊が来るらしい。」
張家口ではあれだけ評判のよかった八路軍でしたが、承徳ではクソミソでした。


解放連盟の一行は涿鹿へむかって出発しましたが、わたしは「腹痛」で参加できず、4名(他に同調者2名)だけ残留することになりました。


それから1週間、毎朝市場へ出かけて、情報を集めました。しかし、いっこうに国民党軍が到着する気配がありません。ウワサは、結局ウワサにすぎませんでした。
「腹痛」も収まり、4人で本隊のあとを追うことにしました。

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