2011年2月8日火曜日

華北交通のころ③

張家口脱出前後


張家口市内略地図


「工藤○平著『張家口訪問記』より」となっていますが、詳細不明のまま、引用させていただきました。張家口駅・鉄路局・鉄路医院などの所在が分かります。青年隊舎があった賜児山へ通じる道も示されています。


天津市周辺地図


「中華人民共和国分省地図集」(地図出版社)からコピーしました。渤海湾にのぞむ塘沽港(天津新港)に旧陸軍貨物倉庫があり、多数の在留邦人たちが収容されて、引揚船の到着を待っていました。

敗戦前夜の張家口 
1945年8月、毎日のラジオ放送も戦況の不利をつたえ、楽天的だった青年隊舎のふんいきが、くらく、ひえきってきました。このままではいけないと考えたわたしが、あることを提案し実行しました。8月14日夜のことです。

「青年隊舎の中で日本人同士話しあっているだけでは、いまおれたちがどんな状況におかれているのか、わかるはずがない。こんな時こそ中国人街へでかけて、店の人たちと世間話をしてみることだ。それがいちばんの情報収集になる」

そういって、わたしは黒っぽいダークワル[大掛児](ワンピースの中国服)に着かえ、数人の仲間たちといっしょに青年隊舎を出ました。ひさしぶりの夜の外出でした。


顔見知りのジャングイ[掌櫃](支配人)のいる店にゆきました。特殊喫茶というか、女性もいて、お茶やお酒を飲みながら時間をすごせる場所です。この日は、いつもより客がすくない感じでした。「世情不安のおりだからな」と妙にナットクしたことをおぼえています。

いつものとおり女性たちが出てきてお酒をついでくれますが、いまひとつもりあがりません。なんとなく居心地がよくないのです。時計を見て、このへんでと、会計をお願いしました。すると、ジャングイが出てきて、いいました。

「きょうの分の代金はいただきません。どうぞ気をつけてお帰りください。よろしければ、あすの晩あたり、もういちどおいでになってみてください」

(この項、「ジグザグ人生」(「長安」31号)により作成)


玉音放送を聞く
8月15日。「玉音放送がある」というので、ラジオのまえで正座していました。音波の状態が悪く、しばらくは意味不明。放送が終わってからも、「大日本帝国敗戦」とは信じられない気持ちでした。

張家口から脱出

8月15日を境に、「天国から地獄へ」の変化がはじまりました。
8月17日。大同・包頭方面から引き揚げてきた日本人たちの輸送列車を張家口駅で見送りました。無蓋車に着の身着のまま、見るも無残な姿でした。
「こんなミジメな格好をして、日本人としてはずかしい」
そう感じました。この時はまだ、「あすはわが身の姿」とは気づいていませんでした。

8月20日。華北交通従業員家族にも撤退命令が出ました。わたしが動員されて不在なので、信子はひとりで荷物をまとめ、駅まで運びました。しかし、衣類などの荷物は駅においたきり、手荷物だけ持って、列車に乗りこむのが精いっぱいだったといいます。無蓋車にシートをかけただけの車両です。

8月21日。ついに華北交通従業員全員に撤退命令が出ました。これが張家口脱出最後の列車となりました。北京まで平常5時間ほどの距離ですが、途中の線路が八路軍の手で破壊されていたため、4~5日かかって、ようやく天津に到着しました。


張家口脱出の真相
このシリーズのはじめに申しあげたとおり、わたしは最近になってようやく梅棹忠夫さんの「行為と妄想」(中公文庫)を読み、「張家口大脱出」の真相について「学習」しました。

わたしたちは「張家口大脱出」の当事者だったことにまちがいありませんが、当時は「大本営発表」だけが情報源で、「関東軍の実態」や「根本博駐蒙軍司令官の決断」など、なにひとつ知らされていませんでした。

「知らぬが仏」、「井の中の蛙」などというコトワザがあります。敗戦前夜にのこのこ「民情視察」に出かけたのも、戦後60年すぎてようやく「張家口大脱出の真相」にたどりついたのも、「大本営発表」を信じることにならされて、「仏」や「蛙」状態になっていたのだと反省しています。

ソ連軍の侵攻で地獄を見た「満州」居留民の場合は、規模もちがい、軍司令官の決断も対照的ですが、居留民が「知らぬが仏」、「井の中の蛙」状態だった点は共通です。

軍司令官の指導原理は「民ハ依ラシムバシ。知ラシムベカラズ。」戦闘行為の最中に討論集会を開いているヒマはありませんから、当然そうなります。ただし、それはあくまで非常事態での話です。


いまかりに、日本政府の指導者が「情報を公開すると、国益をそこなう」などと発言したら、それを聞いた国民はどう反応するでしょうか。「政府当局は国民を信頼していないようだ。だったら、こっちも、そんな政府を信頼する気になれないよ」ということにならないでしょうか。「信ナクバ立タズ」というコトワザもあります。

貨物倉庫で日本再建論議

1945年9月、天津(塘沽)の陸軍貨物倉庫に収容されました。張家口脱出で行き別れになっていた信子も、しばらく北京にいたあと、天津に来て合流。ここで日本への引揚船を待つことになりました。しかし、引揚船の順番がなかなか回ってきません。

貨物倉庫には、米やカンヅメなどの食料品がたくさん用意されていました。お酒も、なんとか手に入りました。仕事もなく、時間をもてあました若者たちがグループをつくり、酒を飲みながら、「日本国再建」の論議をはじめました。


「大本営発表がウソッパチだったはずがない」、「かりに日本本土で敗北したとしても、大陸のわが関東軍は健在のはずだ」、「関東軍を中心に、雌伏十年、捲土重来を図ればよい」など、いさましい議論も出ました。いま思えば、やはり「知らぬが仏」と「井の中の蛙」たちが集まって、「群盲像をなでる」状態でした。

それでも日本の将来について、おぼろげながら見当がついていることがありました。それは「これからの世界は、アメリカ流の道とソ連・中共流の道と、どちらかに分かれるだろう」ということです。

日本再建のために、どっちの道がよいか?いまは資料不足で、判断がつかない。さしあたりは、各自の判断で行動するほかない。①一日も早く帰国して、アメリカ流を研究する。②しばらく中国にとどまり、中共・ソ連流を研究する。③しばらく国民党に協力して時期を待つ、など。やがて日本に帰ってから、おたがいの体験を持ちより、比較してみれば、おのずから将来の展望が開けてくるのではないか?

みんな おおまじめで議論していました。そしてやがて、それぞれの道をあゆみはじめました。

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