2011年6月28日火曜日

中国物産コーナーのころ①

軽四で行商開始 

店頭

食品

景徳鎮茶器など

中国温灸

東栄商行(神戸)

中国貿易公司(横浜)


中国物産コーナーを開業
1972年4月、念願かなって中国物産コーナー開設の日をむかえました。
退職の翌日から、市内の小中学校をまわり、開業のあいさつをしました。
「きのうまで中学校の教師をしていたものが、きょうからは行商人だなんて、みっともない!」と思われた方がおられたかもしれません。でも、それくらいのこと、本人は平気でした。
父親から「恩給(年金)がつくまで勤めるんだぞ」とさとされていましたが、その約束もはたしました。これで、宮仕えは終わり。これからは、中国が好きで中国語を専攻した人間として、中国とつながりのある人生を生きてゆけるだろう…ノー天気というか、ルンルン気分でした。

軽四に商品を積んで行商
店舗については、さしあたり貸本用のスペースの一部をさいて、中国商品を展示することにしました。当時、貸本の業界はまだ順調でしたから、本業が貸本屋で、その店先に中国商品を並べ、お客様に見ていただいたということです。
お金をかけて広告宣伝する余裕はありません。まずは、店売りよりも行商。軽四に商品を積みこみ、顔見知りの人たちがいる小中学校を手始めに、出張販売をつづけました。
1日に1校、あらかじめ学校側の許可をいただき、昼の休憩時間、職員室の一角に見本を並べました。人気商品としては、天津甘栗・蜂蜜・塩クルミ・お茶などの食品類が主流でしたが、景徳鎮の茶器や手編みのレース、サテンにシシュウ入りの小銭入れ、ミニのハサミなども、かなり喜ばれました。
一時、富山県学生協の指定を受けたことがあり、富山市内の小・中学校を中心に、県内各地を巡回しました。

食品から雑貨・衣料まで
日中国交回復から日中平和友好条約締結へと時代が変化し、富山県が遼寧省と友好省県、富山市が秦皇島市と友好都市の協定を締結するなど、一気に中国ブームがおこりました。県や市町村の議員さんたちや企業関係者たちの中国旅行がおおくなり、土産品を予約したり、補充のため来店される方もおられました。
やがて中国旅行がめずらしくなくなり、土産品をくばる習慣もなくなりますが、そのかわり店の名前や場所をおぼえて、たずねてこられるお客さんもできました。
商品構成については、食品ではハチミツ・クルミ・ジャム・中国茶など。雑貨では竹・木・籐・柳・芒草などの民工芸品。陶磁器では景徳鎮・竜泉・磁州などの茶器・酒器・食器など。その他、チャイナドレスや香港シューズ、カンフーシューズ、さらには「筆墨硯紙」や書画掛軸まで。とにかく、お客さまから声がかかれば、できるだけ調達するように心がけました。

中国温灸の実演販売も
ちっぽけな店ですが、県下でわたしの店にしかない商品が、一つだけありました。「中国温灸」という商品です。もとは、県日中主催の中国物産展に毎年参加していた商社「大開」さん(荒物雑貨)があつかっていた商品ですが、人手不足などの都合から、「富山会場では、出品業務は大開が担当、販売業務はイズミが担当」となったイキサツがあります。温灸本体は中国製で、「テレビを見ながら、安全安心でお灸ができる」という器具が日本製です。物産展会場で実演販売をして宣伝しました。富山県内だけでなく、新潟県上越市まで出張したこともあります。

文革で供出された書画掛軸
中國では文革中に、一般市民が持っていた書画掛軸をすべて供出させ、そのご外貨獲得のため一斉に輸出したことがあり、友好商社をとおして日本にも大量に出まわりました。中でも、松屋商事があつかった量が大きかったようです。松屋商事は、食品・衣料品など関係業者と協力して、中国物産展専門集団を組織し、一年中全国各地で中国物産展を開催していました。その中のメダマ商品の一つとして、この中古書画掛軸を売り出しました。
作品は、大多数が有名作家の作品とされていますが、じっさいは本物ばかりではなく、模造品などもまじっています。中には、「乾隆御物」「三希堂」などの印をべたべた押したものもあります。「しろうとが見てもニセモノくさい作品が、どうして?」と考えたことがあります。その背景には「本物には手がとどかないので、万事承知の上で模造品をかざり、本物に見立てて楽しむ」そういう楽しみ方があるようです。
追記:
21世紀にはいって中国の高度成長がつづき、人々の生活が向上するにつれて、書画掛軸の価格が高騰しているという話を聞きました。それで、「日本へ流出した大量の書画掛軸」を買いもどす動きが富山にも達していたというのです。

仕入れ先の商社
開業当初の商品仕入れ先は、まず地元の日中友好商社日本海交易(株)と松屋商事(株)でした。
日本海交易(株)社長の奥田栄助さんは、山室中学校時代の育友会会長であり、また富山県日中友好協会の会長さんでもあり、開業早々から何かとお世話になりました。奥田社長は多忙で不在なことが多く、そのぶん実務担当の友村重義、フミエ夫妻ほかの皆さまにお世話になりました。松屋商事(株)は、高岡市に店舗や倉庫・作業場(家具・書画の補修など)を構え、全国規模の商品構成ができていました。社長の坂田武雄さんは根っからの商人で、中国語もできる人でした。
ある程度まとまった量の商品を仕入れる場合などは、神戸の東栄商行、横浜の中国貿易公司など、華僑の商社から仕入れるようにしていました。 
民工芸品(木・竹・籐・柳・芒草など)については、主として大開(株)から仕入れました。小屋開郎社長(故人)とは、商売をこえて親しくしていただきました。

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