2011年1月25日火曜日

華北交通のころ①

現場実習の2年間

華北交通株式会社本社 


華北交通株式会社は、南満州鉄道グループの国策会社。日中戦争で占領した中国華北地方の鉄道・バスを管理するため、1938年に設立。7年後の1945年、日本敗戦のため消滅。本社、北京市東長安街17号(この項、ウィキペデイアによる)。


社章・社歌

社章は中国大陸を驀進する列車をイメージしたデザインです。見方によっては、片翼だけで飛ぶ姿。バランスをくずして脱線転覆しないか、心配にもなります。

社歌では、「鉄道建設でアジアを復興する」というユメが語られています。ただし、ユメはあくまでユメ。ユメと現実は、なかなか一致しません。日本人が「皇天の啓示」「善隣の義」などと考えていたことが、中国人の目には「日本人の勝手な思いこみ」「よけいなお世話」「内政干渉」「帝国主義の侵略」と見えたかもしれません。21世紀の現代でも、「民族同士の和解・提携」は世界人類共通のユメであり、しかも最も困難な課題とされています。

社歌とは別に青年隊歌というのがあり、その中にこんな文句がありました。

ヒマラヤの嶺高からず タリムの盆地遠からず

若き先駆の力もて やがてゆくべしカスピ海

我等鉄道青年の  きけ遠大の建設譜

すこし軍歌調ですが、青年たちにとっては、このほうが社歌よりも親しみやすかったようです。みんなたしかに壮大なユメをもっていました。

万寿山にて、1941


北京西北郊外の「頤和園」にある山。「八達嶺」、「明十三陵」と並んで、外国人にも喜ばれる観光名所です。


小沢公館にて、1941


2年前中国旅行の件でお世話になったことのお礼と、華北交通入社のご報告のため、北京市三条胡同の小沢開策さん宅を訪問しました。(ブログ「東京外語のころ(中)」参照)

内原と鉄嶺で事前講習

1941年3月、東京外語を卒業して、華北交通(株)に就職しました。会社は、幹部候補の新入社員にたいして2年間の現場実習を課していました。

まず、新入社員全員(文系・理系とも)が内原訓練所で講習をうけました。会社の宇佐美莞爾総裁が満蒙開拓義勇軍内原訓練所の加藤完治所長に訓練を依頼したとのこと。宿舎は、日の丸兵舎。訓練のメダマは、天地返しの耕法でした。

当時新入社員のあいだでは、こんなザレ歌がはやっていました。

  カンジ[莞爾]とカンジ[完治]の かみあわせ

  迷惑するのは 新社員

内原訓練所のつぎ、こんどは「満州国」にわたり、満蒙開拓青少年義勇軍鉄嶺大訓練所で訓練をうけました。農場で移動の途中、ノロ(鹿の一種)の姿を見かけました。また、季節はずれのヒョウ[雹]にもみまわれました。10円玉ほどの大粒で、ヘルメットに当たってコツン、コツン音を立てていました。

大訓練所のあと、鉄道沿線の開拓村に分散して、数日間実習。未成年の若者たちが戦闘訓練と農耕作業を並行させている姿を見せてもらいました。

ついでにソ満国境の町黒河まで足をのばし、松花江をへだててソ連領をながめました。おなじく国境の町ハルピンも訪問しました。思ったよりハイカラで、国際交流の都市だという印象をうけました。そのあと、一気に北京へ向かいました。

天津站と天津列車段

北京本社で各種行事などが終わった後、ひとりひとり分散して、各地方鉄路局の現場に配属されました。いよいよ現場実習2年間のはじまりです。

わたしは天津鉄路局の天津站(駅)に配属。まずは站務員として、改札・構内運転・貨物などの業務を実習しました。

つづいて、天津列車段(車掌区)で車掌の実習。車掌見習いが終わって、1941年12月7日、はじめて単独で貨物列車最後尾の車掌車に乗りこみ、天津から山海関まで乗務。8日朝、帰りの乗務のため駅へ向かう途中、「日本軍、真珠湾を攻撃」の号外を目にしました。

唐山站構内助役 

1942年4月(?)、唐山站構内助役を拝命。宿舎は、機関車給水タンクのそば。ガタンガタン・シュシュ・シューツ。うるさくて、睡眠どころではありません。どうなることかと心配でした。それでも、1~2ヶ月後にはスヤスヤ眠れるようになりました。

構内助役は、駅長代理として列車の構内進入を受けいれ、旅客の乗降や荷物の積み下ろしを確認し、さらに進路の安全を確認したうえで列車を発進させます。ひとりでできる仕事ではありません。おおぜいの駅員たちの協力、つまりチームワークが必要になります。

同僚に程さんという構内助役がいました。中国人従業員たちはみんな「程站長」と呼んでいました。中国語では、駅長はzhanzhang站長、助役はfu- zhanzhang 副站長となりますが、現場では「副」をはずして「程站長」のように呼んでいました。fu-をつけると発音しにくく、違和感があるため。また、助役がする仕事はそのまま駅長がした仕事として通用し、差別がないからです。

わたしはまだ新米の鉄道員でしたが、さいわいすこし中国語ができたおかげで、程さんや構内係りの中国人たちから「本音の話」を聞かせてもらうことができました。

唐山站では、鉄道業務の面だけでなく私生活の面でも、中国人労働者たちはみんな程さんに相談しているようでした。労働者たちには、それぞれの家庭があり、家庭生活の安全が保障されないと、職場でも安心して業務に集中できなかったからでしょう。

一事が万事。一つの駅が1年間無事故運転をめざす場合でも、華北交通が大陸鉄道建設の一翼を担うことをめざす場合でも、成功に必要な条件の第一は「リ―ダーと仲間たちが一心同体になること」です。これは、程站長の仕事ぶりから得た教訓です。

大同站貨物助役

1942年10月(?)大同站貨物助役を拝命。大同炭鉱で採掘された石炭の車両を列車に仕立てて送り出す作業が主な仕事でした。

宿舎に帰ってくると、おとなりさんの部屋から、いつも「たれか故郷を思わざる」のメロデーが流れていました。

 

日本国かならず滅びん

そのころ、本社企画の懸賞論文に応募したことがあります。わたしが提出した論文は、たしか「大陸鉄道建設のゆめ」というタイトルで、「大陸鉄道の建設には、現地従業員の全面的な協力が必要。それには、日本人中心の人事制度をあらため、現地人の給与を改善するなどの遠謀深慮が前提条件だ」と指摘しました。このような考え方は、下地としては華北交通入社以前から持っていたのですが、論文提出を思いたった直接の動機は、唐山駅で「程助役さんとその仲間たち」の仕事ぶりを見せてもらったことです。

論文のコピーをもっていないので、その内容を正確に再現することはできません。ただ、最後の部分をつぎのような文句で締めくくったことを覚えています。

「これしきの遠謀なくしては、大陸鉄道建設のゆめはかなわず、これしきの遠慮なくしては、日本国かならず滅びん」

書き終わった原稿を読みかえしてみて、われながら「かなり過激で時代がかった表現」だとは思いましたが、結局そのまま提出しました。

2011年1月18日火曜日

東京外語のころ(下)

岐阜、長良川鵜飼い(1991年)



富山、トロッコ電車(1992年)



富山、黒部峡谷(1992年)



三重、伊勢神宮(1993年)




京都(1994年)




同級生の進路


入学した年(1937)の7月7日に日中戦争がはじまり、卒業した年の12月8日に太平洋戦争がはじまる。そんな戦争の時代でした。入学当時は35名いた同級生が、召集などで、卒業時には25名ほどになっていました。

同級生の就職先は、陸軍・海軍・運輸・通信・商社などいろいろですが、すべて国家総動員体制に組みこまれていったわけです。


外語クラス会
戦後,ようやく世間が落ちつき、互いに連絡が取れるようになって、楠田兄を中心にクラス会の連絡網ができました。
1971年3月13日、卒業30年記念クラス会を開催。会場:市谷会館(新宿区本村町防衛庁共済組合)。準備委員:楠田・間篠・大沢。

その後、当番制で地方に出かけての一泊旅行会にまで発展(上掲のスナップ写真を参照)。しかし、やがて高齢化のため、東京中心の食事会に。そして、自然解散。


同級生の消息
わたしは地方に住んでいるので、クラス会で顔を合わせるのと、年賀状を交換すること以外は、ほとんど情報源がありません。それでも、わかっている消息をまとめてみます

合場信次 日清製粉(株)取締役。商社マンとして全国各地で勤務。取引先を接待する仕事が多く、小唄・小ばなしなど宴席を盛り上げる芸を習得したそうです。また、日清製粉という会社の関係から、皇室の裏話なども聞かせてもらいました。1985年クラス会幹事。
2007年12月23日死去。
大澤未知之助 元雄山閣編集長。1990年クラス会(柴又帝釈天)の当番幹事。
富山県出身異色の評論家玉川信明さんとは共通の知人。わたしが「コトダマの世界」出版について相談したとき、あちこち出版社に紹介したりしてくれました。
太田誠 同盟通信社海外特派員として活躍。数年来身体不調で静養中のところ、1989年6月24日死去。
木村稠 戦後、税務署に勤務。退職後、税務事務所を開設。1993年クラス会(鳥羽・伊勢)当番幹事。
楠田太郎 4歳ほど年上。在学当時から老成した感じでした。外語卒業後は陸軍に勤務。戦後、自衛隊に勤務。1960年の年賀状には「この度東部方面資料隊長を命ぜられ…」

戦後、クラス会組織の中心。仲間から「オンタイ[御大]」と呼ばれていました。

本人は鹿児島県出身。誰が見ても「薩摩男児」。ただし、人によっては「村夫子」とか「いなかの村長さん」と呼ぶことも。対して、奥さんは福岡県出身の博多美人。このミスマッチが、じつはみごとなハーモニーをつくりだしていました。
戦後しばらく、共産党が支配する大陸中国と国民党が支配する台湾中国とがはげしく対立し、その対立抗争が日本国内にまでもちこまれていました。中国語の学界でも、「台湾を訪問したものは、中国大陸へ行けない」、「中華人民共和国を訪問したら、台湾へ行けない」といわれていました。そんな流れで、楠田兄は毎年のように台湾を訪問しながら、中国本土を訪問せず、イズミは十数回中国旅行をつづけながら、台湾へはいっぺんも行ったことがないというのが現実です。
2002年1月、86歳にて永眠。

篠原弘脩 1989年クラス会(信州)の当番幹事。俳句が趣味。
柴垣芳太郎 在学当時、教室の仲間と相談し、学校側の了承を得て、教室内に「文庫」を設置(「中国文庫の設置」TONGXUE第3号、同学社、1992春を参照)。
バスケットボール部に所属。
卒業後、海軍に勤務。たまたま阿川弘之さんといっしょで、毎日暗号解読が仕事だったとのこと。戦後、南山大学を経て、竜谷大学教授。また北陸大学教授。晩年は、とくに老舎の研究に全力を尽くしておられたようです。1991年クラス会(長良川鵜飼い)の当番幹事。
 <柴垣兄からいただいた作品>

「毛沢東語録の語彙」龍谷大学論集第386号抜き刷り、1968年。
「中英日対照世界の自然科学者名」 龍谷大学論集第414号抜き刷り、1979年。
「『老舎の年譜』改訂試稿(上)」 龍谷紀要第4巻第2号抜き刷り、1982年。
「老舎の家族」 同上第5巻第2号抜き刷り、1983年。
「老舎著作年表」 同上第9巻第2号抜き刷り、1987年。
「老舎著作解題(その1)」 北陸大学紀要第15号抜き刷り、1991年。
千田金造 在学途中に応召。兼松商事(株)に勤務。1990年10月17日死去。
中村四五六 運送会社を経営。「豪放磊落」を絵にかいたような人物でした。
1977年死去。

橋内武道 まじめで、几帳面な優等生。外語在学の4年間、ずっと中学生時代のランドセルを使っていました。卒業後、陸軍憲兵学校の教官。戦後は、読売新聞社外報部勤務を経て、明星大学教授、また亜細亜大学教授。1995年クラス会(東京)当番幹事。
<橋内兄からいただいた作品>
「趙元任博士:わたしの言語的自伝」(仮訳) 1976年。手書き原稿コピー。
「中国の知識人と日本」 部報めいせい2月号抜き刷り、1984年。
「『源氏物語』の中国語訳と林文月教授」明星大学研究紀要、人文学部第20号抜き刷り。1984年。
「橋内武道教退職記念誌」 明星大学中国語研究室、1991年。

久松満秀 教室では、わたしの前の座席でした。山形県出身。戦後、郷里の自治体に勤務。


間篠源太郎 1980年クラス会(市川)の当番幹事。2007年2月永眠。
村上和雄 商社勤務。1980年クラス会(市川)の当番幹事。2007年2月永眠。

以下、イズミ当てハガキから。

「愚公会(中国語研究サークル)に参加して3年半あまり…」(1,975)


「去年、北京で3泊。軍の幹部が私用に車を駆って百貨公司へ女房づれで行っているのを見かけて、何ジャイナと思いました」(1980)
「日本と中国との世界観の断絶の認識が不徹底なままで、日中友好というスローガンを叫ぶことには、以前から危惧の念を抱いていました」(1981)

2010年12月21日火曜日

東京外語のころ(中)

「井上ポケット支那語辞典」巻末広告。A, b.
「井上ポケット支那語辞典」(文求堂、1939)の巻末広告。










「魯迅論文字改革」
a.表紙、b. もくじ。
魯迅が1934年に書いた文章8編(「門外文談」、「中国語文的新生」など)を
まとめ、「魯迅論文字改革」として、
1974年に文字改革出版社から発行したもの。







ペキン市街略地図 
もとは「北京城」と呼ばれ、
市街地全体が本格的な城壁でかこまれていたのですが、
戦後はその城がほとんど無くなるなど、すっかり変化しました。
「三条胡同」という名前はのこっているでしょうか?
「小沢公館」の「四合院」はどうなったでしょうか?





画像④「四合院」解説図 
「中日辞典」(小学館、1992)による。

部分の名称など、さらに詳しい解説を希望されるむきは、
「中国語図解辞典」(大修館、1993)をご参照ください。









思い出の教授たち
ひさしぶりに引っぱりだした「井上ポケット支那語辞典」(文求堂、1939)の巻末広告に、東京外語の先生たちの名前がならんでいるのを見つけました。そのとたんに、70年まえの恩師たちの姿がよみがえってきました。

支那語部の主任教授は宮越健太郎先生でした。先生は教育方針として、生徒に成績通知表をわたしませんでした。じぶんの成績をききにくる生徒がいると、「成績を心配するくらいなら、もっとしっかり勉強しろ!」としかりつけたそうです。

宮越先生が現代中国語講義のため、東大へ出張されるかわりに、東大から塩谷温教授が古典の講義にこられました。先生はいつも羽織袴姿で、悠然といすに着席。時に扇子を使いながら、朗々と「唐詩選」などを講義されました。そういえば、テキストなどもカバンではなく、たしか紫色のフロシキに包んでおられたように記憶しています。

当時いちばん張りきって精力的に授業を進めておられたのは、清水元助先生だったかと思います。教室で習ったのは北京官話(標準語)ですが、先生ご自身は広東語の研究もしておられたそうです

神谷衡平先生は、独特のイントネーションで文芸作品を朗読されました。
内之宮金城先生は、若くてハンサム。みんなから「希望の星」として期待されていましたが、まもなく軍に召集されました(イタリア語科の前田義則先輩と同期)。
諸岡三郎先生には、なんとなく「ダルマ大師」を連想させる風貌がありました。

包象寅先生からは、「急就編」をテキストに、きっちり正確に発音するよう教えられました。
とにもかくにも「まじめで几帳面」という印象でした。日本敗戦後どうしておられるか、気になっていましたが、先日たまたまネットで「1946年、東京中華学校長に就任」の記事を発見。ほっとしました。

英語の授業では、千葉勉先生の講義がユニークなものでした。
「この学校には、学問研究の気風がない。外国語の研究といっても、じつは外国人のモノマネをしているだけ。唯一自慢できるのは、わたしがやっている音声学研究室だけだ」。
毎回、ちょっと口をヘの字に曲げながら「東京外語批判」を展開されました。先生はもともと英国風紳士でしたが、あたりを叱咤激励する姿には、織田信長や伊達政宗などの武将を連想させる一面もありました。
先生の唇の上に豆粒ほどのイボ(ホクロ?)ができていました。それで、生徒たちがつけたあだ名が「You xiansheng[疣先生]」。you[疣]は優秀の[優]と同音です。

カナモジカイに入会
入学してまもなく、兄の紹介でカナモジカイに入会しました。中国語を書くときは漢字ばかりで書きますが、いっぱんの教科の講義はカタカナでノートしました。ひらがなでもよいのですが、カタカナのほうが速記にちかい速さでノートできました。もちろんヨコガキで、英語などとおなじく単語ごとにワカチガキします。
クラスの仲間からは「中国語を学びながら、カタカナで文章を書く、変なヤツ」といわれました。

中国の文字改革運動
 漢字の本場中国でも、当時すでに「文字改革」の運動がはじまっていました。それには「注音字母」「国語ローマ字」「ラテン化新文字」など、いくつもの流れがあり、はげしく論争していましたが、一致する点もありました。
「中国の発展が日本よりおくれたのは、教育の普及がおくれたからだ」
「漢字は表意モジなので、モジ数がおおすぎて、習得するのがむつかしい」
「漢語はいくつかの方言にわかれ、同一の漢字が地域によって別々に発音されている。共通語普及のためにも、カナやローマ字のような表音モジを採用すべきだ」など。

「注音符号」(漢字系統の表音記号)は、東京外語の授業にも採用されていました。また、神田神保町の内山書店には、「文字改革」関係の単行本や雑誌がつぎつぎ入荷していました。魯迅の「門外文談」や「中国語文の新生」なども並んでいました。

日本語の世界戦略とカナモジ
わたしが入会した当時、カナモジカイの会員や支援者の中には、いろんなタイプの人がいました。まず、理事長のマツザカ タダノリ[松坂忠則]さんは情熱の人。カナモジ運動の闘士・論客であり、また作家の山本有三さんとも親しくしておられました。

理事の中には、予備役の軍人さんもいました。陸軍工兵大佐のコウノ タツミ[河野巽]さんと海軍大佐のワカバヤシ[若林]さんなど。当時コウノさんは召集がかかっていたとのことで、軍服姿のこともありました。「現役時代、部下に対して、ビンタを張るなどの暴力行為をゆるさなかった」という評判でした。ワカバヤシ[若林]さんは、背広のにあう英国風紳士で、三菱電機の役員。ワカバ ヤシ[若葉椰子]というペンネームをつかっていました。

当時わたしは、兄とともに東中野駅ちかくに下宿。毎日中央線水道橋駅まで往復していました。ある日の朝、電車の中で軍服姿のコウノさんから声をかけられました。
「イズミ君でしたね」
コウノさんは、「日本語を海外にひろめる」戦略を立て、そのためのスタッフとして、中国語専攻のわたしに目をつけたようです。

コウノさんのお宅は、わたしの下宿から駅までゆく途中にありました。ガラス張りのサンルームがある「お屋敷」でした。コウノさんの娘さんがU大将の息子さんと結婚されたことから、やがて留守番がわりにコウノさんが住むことになったと、ウワサに聞きました。

週末になるとコウノさんをたずね、サンルームでお茶をいただいたり、新宿まででかけて昼飯をごちそうになったりしました。話題はいつも「日本語を世界にひろめる第一歩として、カナモジのテキストをつくること」でした。

夏休みを利用して中国旅行
東京外語にはいった年、夏休みの初日(1937.7.7)に、盧溝橋事件発生のニュースが流れました。日中戦争がはじまり、一般旅行者の中国渡航が禁止になりました。

それまで東京外語では、3年生の夏休みを利用して「中国旅行に出かける」慣行(?)がありました。入学当初から、先輩たちの体験話を聞かされ、「わたしもゼヒ…」と考えていました。もちろん、「旅費をどう工面するか」なども問題ですが、こんどは「どうしたら渡航禁止令をクリアできるか」が先決問題になりました。

苦肉の策として、東京にあった新民会事務所をたずね、相談しました。新民会というのは、 もともと協和会の流れです。「五族協和」をとなえる協和会が「満州国」政府をささえる組織だったように、新民会も華北地区で臨時政府をささえるために生まれた組織です。

さいわい、新民会事務所の青年Tさんのおかげで、「新民会の用件で渡航」というお墨付きをいただき、ようやく渡航許可が出ました。

大連~奉天~新京~北京
大連をふりだしに奉天(瀋陽)~新京(長春)~北京とまわりました。どこへいっても、だれか学校の先輩がおられるので、いろんな話を聞かせていただきました。

新京(長春)では建国大学の先輩から、ノモンハン事件(5月)の真相を聞かされました。それは「大本営発表」とは反対の「全面的な敗北」という深刻な現実でした。

北京では、東京事務所Tさんの紹介で、新民会顧問格の小沢開策さんをたずねました。お宅は、東城の三条胡同にある典型的な四合院で、「小沢公館」と呼ばれていました。(音楽家の小沢征爾さんが小沢開策さんの息子さんだったとは、つい最近になって知りました)。

さいごに、北京西郊の農村実験区で1週間すごしました。
気をよくして旅行しているうちに、しだいに大陸ボケしたというか、帰国したのは大幅に 9月へずれこんでからでした。兄に、きびしくしかられました。

2010年12月14日火曜日

東京外語のころ(上)

手さぐりで音韻学習

東京外語校章
 1899年制定。中央部の炬火と両側の翼を組み合わせたもので、炬火にLの文字が巻きつく。炬火は「世を照らす」意。Lはラテン語lingua(言語)の意。翼は、開設当時の8語学科を表わすとされています。


















「井上ポケット支那語辞典」とびら 
井上翠、1935年発行、1939年第25刷。発音表記にトーマス ウエード式ローマ字を採用。当時最新式の中国語辞典でした。

















同上辞典318ページ 
ご覧のとおり、たとえば、[岡]の発音(1音節)を表わすために「トーマス ウエード式ローマ字」、「ラテン化新文字」、「注音字母」、「カナモジ」計4通りの表記法が示されています。現行のローマ字つづり「漢語拼音方案」は、このあとさらに20年間議論をかさね、1959年にようやく制定されたものです。発音表記法を確定するまでにこれだけテマヒマかかったということは、その表記法にたよる中国語学習者にも、それなりの苦労が要求されたことになります。














東京外語へ入学
1937(昭和12)年4月、東京外国語学校(現東京外国語大学)支那語部文科に入学しました。
東京外語を志望した直接の動機は、身近にいた前田義徳(後にNHK会長に就任)先輩へのあこがれです。前田先輩は旭川地方裁判所で廷丁(廷吏)をしておられた方の息子さんで、旭川中学から東京外語イタリア語科へ進学、地元新聞社勤務のあと、朝日新聞社に入社、海外特派員として世界各地で活躍していました。

英仏独など、いろんな語学コースがある中で支那語(中国語)をえらんだのは、やはり時代の流れです。「満蒙は日本の生命線」というスローガンがさけばれ、「満州国」がつくられ、「満蒙開拓団」や「満蒙開拓青少年義勇軍」が送り出された時代でした。

支那語と中国語
いまはだれでも、どこでも「中国語」といいますが、当時はみんな「支那語」といってい ました。シナ[支那]というコトバは、ChinaやChineseとおなじく、正式な用語でした。「支 那学」という学問の分野もありました。ただし、シナ[支那]もChinaも、もともと外国人が つけた呼び名であり、中国人にとっては外国語・外来語ということになります。

では、中国人自身はどう呼んでいたか?[中国語]Zhongguoyu、[中国話] Zhongguohua、[華語]Huayu、[漢語]Hanyuなど、いろんな呼び方があり、それぞれちがったニュアンスをもっていました。どちらかといえば、日常会話では[中国話]といい、公式の場では[~語]といっていたようです。21世紀の現代でも、ほぼおなじ傾向ですが、ただ中国の中国語教科書などでは、[漢語]Hanyuに統一されているようです。

まずは、中国語の発音練習
日本語では、漢字で[日本]と書いて「ニッポン」もしくは「ニホン」とよみます。ただし、それは日本語の文脈の中での話です。中国人にむかって「ニッポン」「ニホン」といっても、[日本]という意味が通じません。「Riben」のように発音して、はじめて[日本]のことだとわかってもらえます。

さて、1年生の1学期は、朝から晩まで支那語(中国語)の発音練習をつづけました。道を歩いているときは、店のカンバンや電柱の広告などに書かれた漢字を、かたっぱしから中国語の発音でよむ練習をしました。

日本語と中国語とでは、音韻組織がまるでちがいます。中国人と会話したければ、「中国語を耳で聞いて、(翻訳せずに)すぐ中国語で返事できる」ように、じぶんの耳と口を訓練しなければなりません。それは、これまで日本語の音韻組織にあわせて訓練してきた耳と口を、こんどは中国語の音韻組織にあわせて訓練しなおす作業です。

漢字は、漢語(漢民族の言語)の音韻組織にあわせて作ったモジであり、基本的に漢字1字が漢語1音節に対応し、その1音節がそのまま1語になったり、造語要素になったりしています。ですから、一つ一つの漢字の発音練習が中国語の音韻感覚習得に役立つことはまちがいありません。

それにしても、目にはいる漢字をかたっぱしから中国音で発音してみるという作業は、たいへんなものです。まず、漢字の意味は見当がついても、中国語としての発音がわかりません。辞典をめくり、部首別や画数から発音をたしかめます。テマヒマかけておぼえたつもりでも、記憶として定着してくれません。1時間か1日後には忘れてしまいます。毎日、サイのカワラのくりかえしがつづきます。

効果的な学習法をさぐる
そこで、いろいろ考えてみました。
「なんとかして、もっと効率よく中国語音を習得できるような学習法はないか?」
「いくつかの単語をまとめておぼえられる方法はないか?」など。

まず第一の方法は、日本漢字音からぎゃくに中国語音を推定する方法です。たとえばアン[安・案・按]・カン[干・幹・肝]・タン[旦・担・胆]・リン[林・淋・琳・霖]などのように、日本漢字音の語尾がンと表記されるものは、「中国語音でも-n型」と推定するわけです。

「そんなの、アタリマエすぎる」といわれるかもしれませんが、これは だいじなポイントの一つです。というのは、中国語の音節語尾には-n型のほかに-ng型というものがあり、日本人の耳では、なかなか判別できないことがおおいからです。

たとえば、gan[干・幹・肝]とgang[岡・綱・鋼]、dan[旦・担・胆]とdang[当・党]、lin[林・淋・琳・霖]とling[令・鈴・嶺・齢]など。初心者の耳には、どれもみな語尾が「ン」音にきこえ、-n型と-ng型との区別がつきません。辞典でたしかめてみて、はじめて-n型と-ng型とに区分されていることがわかります。

中国音「-n型」は日本漢字音「ン型」に対応し、中国音「-ng型」は日本漢字音「~ウ型」または「~イ型」に対応しています。たとえばgang [岡・綱・鋼]の日本漢字音はカウ、dang[当・党]の日本漢字音はタウ、つまり「~ウ型」です。ding[丁・町・釘・頂・定・訂]の日本漢字音はテイ・チャウ、ling[令・鈴・嶺・齢]の日本漢字音はレイ・リャウ、つまり「~ウ型」とも「~イ型」とも解釈できます。

そこで、「語尾が-nか-ngかまぎらわしい漢語音」を判別するための実用的な対策として、つぎのような仮説(?)を設定してみます。
「日本漢字音がンで終わるものは、中国音語尾も-nと推定できる。語尾がイ・ウのものは、中国音語尾が-ngと推定できる」

音符をもつ漢字
第二の方法は、漢字の字形から発音を推定する方法です。漢字はもともと象形文字、つまり事物の姿をかたどるモジであり、直接発音を表わすことはありません。しかし、よく見ると、発音を表わすための符号、つまり音符をもつ漢字は、たくさんあります。1つの音符を5字も10字もの漢字が共有している例がありますから、「音符による漢字音習得法」はたしかに効果的な学習法といえます。

前記漢字の例で考えてみます。gan[干]は[干・幹・肝]の共通音符、dan[旦]は[旦・担・胆] の共通音符、ding[丁]は[丁・町・釘・頂・定・訂] の共通音符ということになります。また、dang[当・党]、ding[丁・町・釘・頂・定・訂]、gang[岡・綱・鋼]、lin[林・淋・琳・霖]、ling[令・鈴・嶺・齢]などについても同様です。

もちろん、中国語(漢語)学習の入門期ですから「~n型音節と~ng型音節の構成原理」とか、「漢語音変化の歴史と日本漢字音の対応関係」、「形声文字の実態」などについて、どれだけの予備知識があったわけでもありません。ただ「中国人のコトバを聞いてわかるようになりたい」「中国人に通じるコトバをおぼえたい」という一心で練習していただけです。

それだけのことですが、それがやがて「ヤマトコトバと漢語の音韻比較」「象形言語説」の発想法につながり、さらに「五十音図修正提案」「日漢英の音韻比較」「現代日本語音図試案」「日漢英共通64音図」までつながっていったことも事実です。

2010年12月7日火曜日

旭川中学のころ


渡部善次校長
1932(昭和7)年3月、旭川市立中央小学校を卒業。4月、庁立旭川中学校(現旭川東高校)へ入学。渡部善次校長・立花繁男教頭の時代でした。
渡部校長は、「じぶんの学力が十分でないと思ったら、むりに進級するよりも留年して基礎を固めするほうが有利だ」というのが持論でした。じっさいじぶんの息子さんにも留年させていました。

同期生のこと
同期に、野球のスタルヒン選手がいました。1年生のとき地区大会で優勝。甲子園初出場ということで、学校どころか町をあげてお祭りさわぎになりました。キャッチャーをつとめた西條敏夫兄は、「スタルヒンの投球を受けられたのはおれだけだ」と自慢していました。

同期生の中から2人も哲学者が出たのは意外でした。1人は武田弘道兄。中央小学校以来の遊び仲間で、わたしとおなじく小柄。チョロチョロ動きまわるので、「武田のチョロ」とよばれていました。生家が「武田医院」でしたから、おそらく彼もお医者さんになるだろうと思っていました。あとで「大阪市立大学哲学科教授」ときかされてビックリしました。

もう一人は斎藤忍随兄。東京大学文学部哲学科を卒業、北海道大学を経て東京大学文学部教授・同文学部長・名誉教授を歴任。ギリシア哲学の第一人者だそうです。生家が曹洞宗のお寺で、中学時代からなんとなく風格みたいなものがあり、みんなが一目置いていました。

栃木義正兄については、このブログのはじめ(11月9日)でもご紹介しましたが、小学生当時のわたしには「小学校の校長先生のお宅」という潜在意識があり、『栃木商店』へ買い物にゆくときは、いつもヒヤヒヤしていました。中学校でもおなじクラスになったことはなく、直接の交流はありませんでした。ただ、栃木兄が東京文理科大学に進学し、高校で地理の先生をしているという話は聞いていました。

ずっとあとのことですが、1991(昭和3)年『コトダマの世界…象形言語説の検証』(社会評論社)を発表したおり、1部贈呈したことがあります。その翌年、『北海道 集落地名地理』(567ページ)という大作を送っていただきました。わたしは「地理学」については門外漢ですが、「地名」には関心があります。この本の序文に『…「集落名称」を、その起源より分類したものであり、その分類の視点を地理的視点においた』とあるとおり、北海道におおいアイヌ語ゆかりの地名について、一つ一つ解説されています。送り状に「北海道を偲ぶ よすがにしてください」とありましたが、自称「エゾッコ[蝦夷子]」のわたしにとって、大切な宝物になっています。

東京にいる同期生たちが「旭三会(第30期)」というグループを組織し、定期的に親睦会を開いていました。中心になって世話をしていたのが花輪元治兄で、富山のわたしにも案内があり、数回出席しました。その席に斎藤大先生が顔を出していたこともあります。

校友会の機関紙に「カナモジ論について」投稿したことがあります。兄がカナモジカイの会員だったので、わたしも日本の国語・国字問題に関心を持ちはじめていました。

謹慎1週間
1936(昭和11)年、5年生1学期末のある日、わたしは作業科の作品提出をめぐって校則に違反したことから、「学級担任宅で1週間の謹慎」を命じられました。当日は学校から帰宅を許されず、そのまま構内の1室に収容。保護者の父が呼びだされました。帰りぎわ、面会をゆるされた父は、ただひとこと『カゼをひかないように』といっただけでした。

謹慎の場所は、たまたま学級担任の朝比奈進先生が病気静養中のため、副担任の水上勇太郎先生のお宅でということになりました。水上先生は3月に東京文理科大学を卒業、4月に赴任されたばかり。しかも、新婚そうそう。「新婚旅行をかねて、旭川へ来られた」とうわさされていました。

謹慎処分を受けてションボリしていたわたしは、水上先生と奥さまからとてもだいじにしていただきました。先生は、勉強づくえの高さを心配して調節したり、「毎日家の中で勉強ばかりしていては、健康によくないから」と、散歩に連れだしたりされました。

「校則違反」の内容については、A君との「共同正犯」であり、学校当局も「部外秘」としていたことなので、わたしがかってに公開することはできません。A君がどんな1週間を過ごしたかも、聞いていません。いずれにしても、水上先生ご夫妻にとっては「とんだオジャマ虫」だったかと思いますが、わたしにとっては「地獄で仏」、一生忘れられない、なつかしい思い出の1週間となりました。

事件について学校当局は、処分の内容はもちろん、事件の発生についても「部外極秘」の方針をつらぬいたようです。数十年後、友人からの年賀状にこんなメモがありました。
「あの時、君がたった一人でストライキをやったというウワサが流れた」

縁は異なもの
水上先生とは、そのごも意外な場所でお会いしました。
1回目は東京。先生は、わたしどもを卒業させた1935年3月、旭川中学校を退職、東京府立四中へ転勤しておられたのです。2回目は1941年ころ、北京日本中学校で。ここでも、校長は渡部善次先生でした。

                             
北京日本中学校のみなさん(「北京日本中学校校史」による)
(注)最前列中央左が渡部校長、右が水上先生.

そして3回目は1945年2月、門司港で偶然の出会いでした。わたしは結婚のため一時帰国、富山へ向かう途中。先生は「現地では危険が予想されるので、家族を内地へ引きあげさせ、単身で北京へ帰る途中」とのことでした。

「(専門に研究している)流体力学の分野から考えてみても、この戦争に勝ち目はない。じぶんが仕事に専念できるよう、家族を内地へ帰した」

それまでずっと先生を尊敬していたわたしですが、このコトバを聞いたとたん、先生の「愛国心」をうたがう気持ちになりました。「神州不滅」「連戦連勝」という「大本営発表」ばかり聞かされていたので、「世界情勢の中で、客観的に日本の現状を判断する」ことができなくなっていたのです。おはずかしい話です。

先生は数学とか流体力学が専攻とうかがっていましたが、コトバの問題についても関心を持っておられたようです。1991年9月、わたしが『コトダマの世界』を発表したとき、さっそくご感想をよせていただきました。

『…貴説は視覚特に「動」に着目した動詞→名詞の系統化であるように見受けられます。「静」に着目して名詞→動詞を考えたらどの様な結果がでるでしょうか。さて当節余りにも言葉の美しい響きが失われて行くようで気がかりです。特に「t」音が強い様で耳障りなのです。これは蛇足…』

先生ご指摘の「コトバの静と動」については、このあと「コトダマの世界」シリーズでとりあげてみたいと考えています。
先生は、2005(平成17)年5月11日「97歳にて永眠」されたとのこと。ご遺族の方からお知らせいただきました。

2010年11月30日火曜日

死亡者長義の来歴

…三男を亡くした父親のメモ…




<まえがき>
 先日父長蔵の遺品を整理していたところ、「死亡者・長義の来歴」というメモが見つかりました。28歳の若さで亡くなった3男長義(1923~1951)の1周忌をまえに、親として痛恨の思いをつづった追悼メモです。半紙をタテ長の二つ折りにして使用。5ページにわたる長文です。これだけの追悼文をもらった長義は、4人きょうだいの中で一番の幸せものかもしれません。
父はながく刑事裁判の予審部門で書記を勤め、事件の記録調書をつくるのが仕事でしたから、このメモも「記録調書スタイル」になっています。ほんとうは「原文のまま」ご紹介したいところですが、それではいまの若い方々に読んでいただけそうにありません。そこで思いきって、現代口語文スタイルに書きなおしてみました。1人でもおおくの方々に読んでいただければ、父も弟も喜んでくれると思います。タイトルは原文のままにして、サブタイトルを追加。1~7各項の見出しに、「生い立ち」などの文句を追加しました。

死亡者・長義の来歴

1. 生い立ち
大正12年11月13日午後、泉家第5代目長蔵の3男として、同年長蔵が新築した北海道旭川市8条通り16丁目左4号の自宅で呱々の声をあげました。生長するに従い、旭川市大成小学校に学び、6年の課程を終え、ついで同市所在の北海道庁立旭川中学校に入学、所定の5年の課程を卒業し、さらに進んで東京都品川区大井町所在の東京都立高等工業専門学校に入学、所定の課程を1回も滞りなく卒業したものであります。

2.就職・召集・敗戦
卒業後、横浜市港北区吉田町所在の安立電気株式会社吉田分工場(本社、東京都港区麻布広尾町)に奉職。分工場付近の早淵(?)寮から通勤。仙北屋さんを部長とする同会社計器部で作業していました。
昭和19年11月に召集され、宮城県石巻市の暁部隊に入隊。死線を超えて訓練終了。移送されて、四国愛媛県八幡付近に駐屯。専ら軍務にいそしんでいました。
ところが、昭和20年8月15日の終戦を迎え、敗戦軍人の汚名の下に、同年9月13日、哀れなる姿で、当時私が住んでいた北海道天塩国中川郡中川村市街地所在の名寄区裁判所中山出張所(登記所)に突然帰宅しました。軍の階級は伍長でした。

3.復職した会社が解散
 安立電気株式会社は、大東亜戦争たけなわのころは麻布の本社、吉田分工場、名古屋分工場をあわせ、約1万5千の従業員を擁する大会社でありました(中でも吉田分工場はその大半を占めていました)。
戦争終結とともに敗戦の余波を受け、会社は漸次衰微していきました。長義は昭和20年11月復帰を命ぜられ、ふたたび大志を抱いて上京したものの、会社は次第に整理のやむなきに至り、同23年ついに解散し、従業員も四散するに至りました。

4.会社の再建をめざす日々
 本社は第2会社を設立し、麻布に工場を置き、わずか四~五百人の従業員を雇用し、細々と誕生しました。長義等は同志と共に、当時の取締役で吉田工場の場長だった仙北屋さんを社長に仰ぎ、本当に気の合ったもの十五、六人が株主となり(長義もその1人)、安立電気会社の諸機械および安立なる名義をそのまま譲り受け、ここに安立計器株式会社を設立しました。事務所および工場を東京都目黒区東町48番地に置き、約五十人の従業員を雇用し、仙北屋社長、杉本副社長、篠原総務部長、浜中販売部長、栗田技術部長等を中心に、孜々営々として会社の発展に努めていました。
ところが25年5月ころ、栗田部長が家庭の事情から止む無く退社し、仙台市の自宅へ帰られたため、長義は技術部長の役を受けることになりました。彼は社会奉仕の精神に燃え、方々無線方面をも研究していました。
毎日(彼が終戦後復帰と共に移った)横浜市港北区南綱島町676番地の興亜寮(後に清和荘と改名)から東京まで通勤。ほとんど昼夜を分かたぬ勤務ぶりをしていました(そのことは、寮在住の主婦たちの言葉から分かります)。
 たまたま25年6月15日、朝鮮に勃発した動乱を期にして、全国の経済界は一時に好況を示し、彼の会社(計器会社)も漸次好況を呈すると同時に、彼の技術もますます必要の度が高まっていました。

5.過労から発病・入院
 ここで彼はついに業務の多忙に追われ、無理をした結果、6月ころから身体に異常を呈していたので、諸所の名医に診察を受けたものの、既往症の肋膜にばかり気をとられ、医師も真の病気を発見することができず、そのあいだに病魔は遠慮なく亢進をつづけていました。
25年11月になって、品川区平塚町の昭和医科大学付属病院泌尿器科主事医長篠原倫二氏から、「腎臓結核で、多少手遅れの疑いもあるが、手術で回復できる」との診断を受け、その準備をしていたのですが、なにぶん同病院に空室がないことから、ずるずると約1ヶ月間、会社に通勤しながら通院し、療養に努めるという状態でした。
 かろうじて12月28日、第101に号室に入院、ベッドの人となりました。知らせにより駆けつけた愚妻は、26年1月4日から専心看護にあたりました。

6.薬石効なく
 その後、一進一退の病状で、3月26日到着した私に対し、28日、篠原医師から「あー、泉さんのお父さんですか。よいところに来てくださいました。しかし、泉さんには困りました。実に申し訳ないことですが、私ども医者としては、あらゆる手段を尽くし、できるだけの治療をしたのですが、今となってはほんとうに如何とも致し方がない。この上は、時期を待つよりほかはないが、マー急なこともあるまいと思う」と申されました。
私はこの言葉を妻や本人に打ち明けることはできず、ひとり黙々として胸を押さえていたのですが、二日間ばかりは、ほとんど前後不覚のような気持ちでいました。そのあとは、あの病人の顔や身体がなんとなく尊いものの存在のように思われ、ことのほか哀愁の念が深まりました。
妻と共に寝食を忘れて看護をつくしましたが、日に日に身体の衰弱が高まり、また本人も相部屋より個室のほうがよいというので、第106号の個室に移り(4月3日午後4時半ころ)、さらにていねいな看護を続けましたが、なんら効なく、ついに(昭和26年4月)5日午後1時20分、私ら両親と兄長嘉と病院の医師および看護婦に見守られ、最後の息を引き取りました。ついになんの遺言もしないまま瞑目しました。

7.3回目の死線、超えられず
 彼は以前12歳のころ、銃剣術の稽古に熱中し、選手となった結果、ついに肋膜炎を患い、7ヶ月間病床につきました。ずっと続けて往診してくださった佐竹医師の「薬石効有り」、なんとか回復することができました。これが第1回の「死線を超えて」です。
 軍人として、さらに第2回目の死線を超えたのですが、今回の第3回目はついに越えることができず、そのまま往生してしまったのです。
 彼は、剣道初段の免状も持っていました。

<追記>
一周忌勤行
 昭和27年3月5日(家内上京の都合により、1ヶ月繰り上げ)快晴。



「死亡者・長義の来歴」原本

2010年11月16日火曜日

兄・姉・弟のこと

兄、タケヨシ[長嘉]
兄の思い出
兄は、学生時代からのカナモジカイ会員でした。カナモジカイ会長伊藤忠兵衛氏の意向で、富山地方鉄道の駅名をカナガキにする企画に参加したことがあります。

カナモジカイ青年部の仲間が東京の銀座通りでカナモジ運動の街頭宣伝をやったこともあります。わたしは金魚のウンコみたいにくっついていって、ウロウロしていました。まだ「銀座の柳」があり、夜店が並んでいたころの話です。

わたしにとって兄の存在は、時には父親の代理・後見人であり、時には人生の先輩・師匠でもありました。わたしが帰国後、無一文の身でいきなり「富山で書店を開業したい」といいだしたときは、雑誌の仕入れ先を紹介するなど、親身になって世話してくれました。


兄は、わかいころから俳句をやっていました。1998年、長男の妻公美さんの協力で句集「泉たけよし句集(粗案)」をつくりました。そのマエガキで、こう述べています。
「俳句暦は、決して短いものではない…教えを受けた先生は、上林白草居(草主宰)、富安風生(若葉主宰)、清崎敏郎(若葉主宰)、有働亨(馬酔木同人)の方々…時代的には、昭和11年から平成5年頃まで…結社誌などに掲載された句を、以下、年代別に拾ってみる」

その開巻第2句目に、つぎの1句がありました。
 弟の上京の日の春の雪  (注)1937(昭和12)年春、受験のためオキナガ上京。
家族関係の句を、もう1句ご紹介します。
 はばからず妻のあとつく五月かな No. 265 (注)父とよく似た愛妻家でした。2003(平成15)年3月10日、米寿を目前にして亡くなりました。


泉長嘉 プロフィール (この項、主に長女るり子さんの資料により作成)
1915(大正4)7月15日、旭川区(現旭川市)で生まれる。
旧制旭川中学校(現旭川東高校)を経て、1937(昭和12)年、中央大学法学部を卒業。
商工省(元通商産業省、現経済産業省)に就職。
戦争末期、軍属として香港に派遣され、1945年、敗戦により抑留される。
1946(昭和21)年、帰国。商工省繊維局紙業課に復職。
1947(昭和22)年、翁ハル(翁久太郎の妹)と結婚。
1952(昭和27)年、長男進誕生。
1954(昭和29)年、長女るり子誕生。
1962(昭和37)年、通商産業省中小企業庁勤務。
1970(昭和45)年、(課長職)退職。小規模企業共済事業団に就職。営業部長として、全国組織を固めるため東奔西走。
1973(昭和48)年、監事に就任。
1985(昭和60)年、小規模企業共済事業団を退職。
 秋の叙勲で勲四等瑞宝章を受章。

趣味 水墨画(画号、墨泉)。
   俳句(俳号、泉たけよし)。社団法人俳人協会会員。『馬酔木』に寄稿。





姉、エイコ[栄子]


姉の思い出
姉、栄子は、4人きょうだいの中で、ただ1人女の子として生まれ育ちました。まだまだ男女差別のきびしい時代でしたから、それだけ苦労もおおかったかと思います。わたしにとって、心のやさしい姉でした。

道庁立旭川高等女学校を卒業したあと、市内の百貨店に勤務。女性が職場に立つことがめずらしく、「職業婦人」というコトバがはやりはじめた時代でした。
地方公務員片桐正男氏と結婚。3人の男子の母となりました。
1971(昭和46)年3月29日に亡くなりました。






弟、ナガヨシ[長義]
弟の思い出
弟、長義は、東京都立高等工業専門学校で電気工学を学び、応召の時も兵科は通信兵でした。乗るはずの飛行機がなくなったため、船舶兵に転科。1945年2月、わたしと信子が北海道へわたる途中、松島湾まで面会にいったところ、弟は「毎日小船に乗って敵前逆上陸の演習をしている」といっていました。「大日本帝国敗戦」まで半年のことです。

戦後の弱電ブームで活躍が期待され、婚約者もきまっていたのですが、病にたおれ、1951(昭和26)年4月5日、29歳の若さでなくなりました。4人きょうだいの中でもっとも心やさしい好青年でした。