2011年6月28日火曜日

中国物産コーナーのころ①

軽四で行商開始 

店頭

食品

景徳鎮茶器など

中国温灸

東栄商行(神戸)

中国貿易公司(横浜)


中国物産コーナーを開業
1972年4月、念願かなって中国物産コーナー開設の日をむかえました。
退職の翌日から、市内の小中学校をまわり、開業のあいさつをしました。
「きのうまで中学校の教師をしていたものが、きょうからは行商人だなんて、みっともない!」と思われた方がおられたかもしれません。でも、それくらいのこと、本人は平気でした。
父親から「恩給(年金)がつくまで勤めるんだぞ」とさとされていましたが、その約束もはたしました。これで、宮仕えは終わり。これからは、中国が好きで中国語を専攻した人間として、中国とつながりのある人生を生きてゆけるだろう…ノー天気というか、ルンルン気分でした。

軽四に商品を積んで行商
店舗については、さしあたり貸本用のスペースの一部をさいて、中国商品を展示することにしました。当時、貸本の業界はまだ順調でしたから、本業が貸本屋で、その店先に中国商品を並べ、お客様に見ていただいたということです。
お金をかけて広告宣伝する余裕はありません。まずは、店売りよりも行商。軽四に商品を積みこみ、顔見知りの人たちがいる小中学校を手始めに、出張販売をつづけました。
1日に1校、あらかじめ学校側の許可をいただき、昼の休憩時間、職員室の一角に見本を並べました。人気商品としては、天津甘栗・蜂蜜・塩クルミ・お茶などの食品類が主流でしたが、景徳鎮の茶器や手編みのレース、サテンにシシュウ入りの小銭入れ、ミニのハサミなども、かなり喜ばれました。
一時、富山県学生協の指定を受けたことがあり、富山市内の小・中学校を中心に、県内各地を巡回しました。

食品から雑貨・衣料まで
日中国交回復から日中平和友好条約締結へと時代が変化し、富山県が遼寧省と友好省県、富山市が秦皇島市と友好都市の協定を締結するなど、一気に中国ブームがおこりました。県や市町村の議員さんたちや企業関係者たちの中国旅行がおおくなり、土産品を予約したり、補充のため来店される方もおられました。
やがて中国旅行がめずらしくなくなり、土産品をくばる習慣もなくなりますが、そのかわり店の名前や場所をおぼえて、たずねてこられるお客さんもできました。
商品構成については、食品ではハチミツ・クルミ・ジャム・中国茶など。雑貨では竹・木・籐・柳・芒草などの民工芸品。陶磁器では景徳鎮・竜泉・磁州などの茶器・酒器・食器など。その他、チャイナドレスや香港シューズ、カンフーシューズ、さらには「筆墨硯紙」や書画掛軸まで。とにかく、お客さまから声がかかれば、できるだけ調達するように心がけました。

中国温灸の実演販売も
ちっぽけな店ですが、県下でわたしの店にしかない商品が、一つだけありました。「中国温灸」という商品です。もとは、県日中主催の中国物産展に毎年参加していた商社「大開」さん(荒物雑貨)があつかっていた商品ですが、人手不足などの都合から、「富山会場では、出品業務は大開が担当、販売業務はイズミが担当」となったイキサツがあります。温灸本体は中国製で、「テレビを見ながら、安全安心でお灸ができる」という器具が日本製です。物産展会場で実演販売をして宣伝しました。富山県内だけでなく、新潟県上越市まで出張したこともあります。

文革で供出された書画掛軸
中國では文革中に、一般市民が持っていた書画掛軸をすべて供出させ、そのご外貨獲得のため一斉に輸出したことがあり、友好商社をとおして日本にも大量に出まわりました。中でも、松屋商事があつかった量が大きかったようです。松屋商事は、食品・衣料品など関係業者と協力して、中国物産展専門集団を組織し、一年中全国各地で中国物産展を開催していました。その中のメダマ商品の一つとして、この中古書画掛軸を売り出しました。
作品は、大多数が有名作家の作品とされていますが、じっさいは本物ばかりではなく、模造品などもまじっています。中には、「乾隆御物」「三希堂」などの印をべたべた押したものもあります。「しろうとが見てもニセモノくさい作品が、どうして?」と考えたことがあります。その背景には「本物には手がとどかないので、万事承知の上で模造品をかざり、本物に見立てて楽しむ」そういう楽しみ方があるようです。
追記:
21世紀にはいって中国の高度成長がつづき、人々の生活が向上するにつれて、書画掛軸の価格が高騰しているという話を聞きました。それで、「日本へ流出した大量の書画掛軸」を買いもどす動きが富山にも達していたというのです。

仕入れ先の商社
開業当初の商品仕入れ先は、まず地元の日中友好商社日本海交易(株)と松屋商事(株)でした。
日本海交易(株)社長の奥田栄助さんは、山室中学校時代の育友会会長であり、また富山県日中友好協会の会長さんでもあり、開業早々から何かとお世話になりました。奥田社長は多忙で不在なことが多く、そのぶん実務担当の友村重義、フミエ夫妻ほかの皆さまにお世話になりました。松屋商事(株)は、高岡市に店舗や倉庫・作業場(家具・書画の補修など)を構え、全国規模の商品構成ができていました。社長の坂田武雄さんは根っからの商人で、中国語もできる人でした。
ある程度まとまった量の商品を仕入れる場合などは、神戸の東栄商行、横浜の中国貿易公司など、華僑の商社から仕入れるようにしていました。 
民工芸品(木・竹・籐・柳・芒草など)については、主として大開(株)から仕入れました。小屋開郎社長(故人)とは、商売をこえて親しくしていただきました。

2011年6月14日火曜日

山室中学校のころ② 

「康熙皇帝勅諭」

日教組15次教研会場

日教組15次教研リポート、1966

職務命令違反の件  

「新英研」51号

「中部地区英語教育学会紀要1 1971

語研21回大会、1971、関西大学

「中国の手帳」第1号、1965.8.

「中国の手帳」2号、「八達嶺」

永年勤続退職共職員に対する感謝の会 ,1972.4.


「康熙皇帝勅諭」を発見
山室中学校に勤務して間もなないころ、自分なりに校下の文化財調査をこころみました。ある日、シンミョウ[新名]の專立寺さんで、「康熙皇帝勅諭」という作品を発見し、写真にとらせていただきました。清朝の康熙皇帝が朝鮮国李王への使者に持たせた礼物(贈り物)の目録で、まちがいなく本物でした。この件については、ブログ「いたち川散歩」の「まぼろしの文化財」(2010.10.28)の項で発表しました。ぜひご参照ください。

日教組の教研集会に参加
当時、文部省・県教委が推進する教育研究運動と、日教組・県教祖が推進する教育研究運動と、二つの流れが競争していました。いわゆる「官制教研」と「自主教研」。いまふりかえって、やはり一長一短。わたし自身は、両方とも出席するようにしていました。どちらかといえば日教組教研の方が、肩書をはずして自由に、納得ゆくまで討論することができたと思います。
教研集会をとおして高畠康吉さん(高校教諭、県教研講師)と知りあい、高畠さんの紹介で「新英研」の仲間にいれていただきました。教研集会に参加したおかげで、「教師として一歩だけ進歩できた」と感じています。
1966年1月、日教組第15次教研全国集会(福島県飯坂町)に参加。共通テーマ:外国語教育の目的は何か?イズミが提出したリポート:英語学習における能力差の問題をどう考えるか?
1966年4月、福島教研集会の報告 「なんのために外国語を学習するのか?」」(市教組機関紙「けんせつ」18号、1966.4)。(前回ブログの関係記事参照)

「職務命令違反」で戒告処分
1966年10月、「職務命令違反」で戒告処分を受けることになりました。学校から市教委への報告文書に、その罪状が書いてありました。
「昭和41年10月20日、第3~4限の授業を放棄し、学校長の職務命令も無視して職場を離脱、県教組役員とともに富山市教委との集団交渉に参加したもので、職場専念の義務をおこたったものと認められる。」(以下、「重大決意表明の件」、「学校分会に関する記録」など、詳細に記録。B5判13ページ)
下書き段階のものだったかもしれませんが、あきらかにマル秘文書です。そのコピーが、数日もおかずに、わたしの手にはいりました。それだけ文書管理がズサンだったからでしょうか?それとも、緊張した職場とはいえ、それだけおおらかな部分もあったということでしょうか?
公務員として、法令に従うのは当然。戒告処分を受けることは、覚悟の上でした。「カクすれば、カクなるものと知りながら…」
国禁をおかして黒船に乗りこもうとした吉田松陰先生の行動にたいしても、いまどきの感覚では「もっと合法的、合理的な方法をとるべきだった」と注文がつくかもしれませんね。

「象形言語説」の展開
戒告処分を受けたあとくらいから、わたしは「日本語・漢語・英語の音韻比較」作業にのめりこみ、 「象形言語説」にもとづく作品を、つぎつぎ発表しました。例によって失敗の連続でしたが、失敗したおかげで勉強をやりなおし、もういちどチャレンジすることができたと思っています。
1970年2月、「発音と意味を結びつける語い指導法の提唱」。日教組19次教研集会(岐阜)。
1970年4月、「発音と意味を結びつける語い指導…仮説:世界の言語は一つ」。「新英研」51号。
1970年9月、「音韻論による語い指導」。日教組20次教研資料。
1970年9月、「 象形言語説について」。中国語学研究会第20回大会(東北大学)個人研究の部で発表、→「中国語学」203号。
1971年7月、「 中学校における英語音韻の指導…象形言語説の実践」。7/4静岡大学で研究発表。 →「中部地区英語教育学会紀要1」。Pp. 66~71.
1971年10月、「 音韻感覚をそだてる指導法…語彙学習教材のこころみ」。日教組21次教研資料。
1971年10月、中国語学研究会第21回大会に参加。関西大学。         

玉川信明さんとの出会い
1965年5月ころから、玉川信明さんの発案で、「中国の会」が生まれました。毎月第1、第3日曜日の午後、イズミ宅で定例会。機関誌として「中国の手帳」を発行。
1965年8月、「中国の手帳」第1号。巻頭に「電車の車掌さんも一役…シャンハイ市の共通語普及運動」をのせていただく。      
1965年12月、「中国の手帳」2号。「日本人の中国体験」として「八達嶺(1)」…4号まで連載。(そのご「日本と中国」に転載)。
1966年4月~、「八達嶺をこえて」。日中友好協会機関紙「日本と中国」に連載7回。

52歳で退職
1970年12月、永年勤続20年表彰をうけました。
1972年3月、山室中学校を最後に、富山市立中学校教諭の職をはなれました。52歳で退職というのは、常識的には早すぎるでしょうが、わたしとしてはよくよく考えたうえでの決断でした。
民主主義を身につけた国民を育てあげる場が中学校。その中学校の教員の一人として、自分でできることは、一応やりつくした、と感じていました。また、教育労働者の一人として、日教組の一人として、組合運動に参加したり、教研集会に参加したりしてきました。
それはそれでよいのですが、「このままでわたしの人生を終わりたくはない」という思いがあり、それが「早期退職」を決断させました。新生中国をめぐって、世界の情勢が変化を見せていました。ニクソン大統領の中国訪問や田中首相の訪中、日中共同声明発表などの直前でした。

2011年5月31日火曜日

山室中学校のころ① 

山室中学教職員

「英語学習における能力差の問題をどう考えるか?」、1965.8.


「古代日本語の構造にかんする仮説」、1969

「象形言語説による英語音韻論」、1970

「英語学習基本語い集」、1971

山室中学校へ転勤
1965年4月、 山室中学校へ転勤を命じられ、1972年3月まで7年間勤務することになりました。
じつは、手元に当時の校舎の写真が見当たらず、教職員の写真だけ掲げましたが、これも何年度のものか、思いだせません。ボケましたね。

常願寺川の河川敷に精通
1年1組を担任。1966年1月に発行した「学級通信」が残っています。ただし第2号まで。東部中学時代の「カガミ」のようなわけにはゆきませんでした。
校務分掌では、生徒指導を担当。生徒の中には、学校をさぼって、自動車製造工場敷地に並ぶバスの中で仮眠したり、常願寺川の川原をさまよったりするものもいました。そのたび心当たりの場所へ探しに出かけます。おかげで、常願寺川の川筋や、おおきな岩のありか、グミの木のありかなど、あらかた覚えました。いっぺん大雨が降れば、すっかり様変わりするわけですが。

学習指導法改善を目指す研究会
北部中学のころ、学校課題として「生徒の能力差に応じた学習指導」の研究にとりくみました。
山室中学に来てからも、富山市中教研の外国語部会でこの問題について議論しました。
さらに、1966年1月、日教組15次教研全国集会(福島市飯坂)の外国語分科会でも、「能力差の問題」がとりあげられました。このとき提出したリポートが「英語学習における能力差の問題をどう考えるか?」(北部中学での「能力別学級のこころみ」の実践報告)です。

真剣勝負で議論
福島の教研集会で、石川・新潟・兵庫など全国各地の英語教師たちの話をきくことができました。みんなたいへんな勉強家ぞろいで、それだけ自信に満ちた教師・研究者・活動家たちでした。それが真剣勝負で議論を戦わせます。「これこそ本物の教育研究だ」と痛感しました。
富山へ帰ってから、市教組の仲間たちに福島教研集会の様子を報告するとともに、あらためて「教育研究のありかた」について討論をおこすよう呼びかけました。
「なんのために外国語を学習するのか」…「能力別学級編成」と「小集団による学習指導」(市教組機関紙「けんせつ」18号、1966.4)。

「仮説、象形言語説」を発表
わたしは中国語を専攻したことから、日本語(ヤマトコトバ)と中国語(漢語)の音韻比較作業をはじめ、やがて「ヤマトコトバの成立過程」について自分なりの仮説を立て、発表しました。
1968年2月、「古代日本語の形成過程Ⅰ」…古事記と魏志倭人伝の分析から
1668年10月、「古代日本語の形成過程Ⅱ」…単音節からマクラコトバまで
1969年7月、「古代日本語の構造にかんする仮説」…「語い構造にかんする仮説」、「音節構造にかんする仮説」、「単語家族表」
いずれも、著作などと呼べる作品ではありません。1968年4月、広瀬誠先生からご批判をいただき、上代日本語カナヅカイの問題から勉強しなおすことになりました。

広瀬先生との論争で完敗しましたが、それは致命傷にはなりませんでした。それよりも、中国語の学会の席で先輩から「仮説というからには、せめて3か国語以上について論証せよ」と忠告されたことの方が気になりました。日本語と中国語と2か国語だけでは、点か線にしかなりませんが、3か国語なら、なんとか面になるからです。
英語は専攻でないので、だれか共同研究者になっていただければと考えていたのですが、そんな奇特な方はなかなか見つかりません。やむなく自力でトボトボ歩きだすことにしました。
1970年7月、「象形言語説による英語音韻論」…発音と意味の対応関係をさぐる
1971年2月、「英象形言語説による語学習基本語い集」…富山県教育委員会島上与作氏のご高配をいただき、財団法人教育振興会から教育研究奨励金の交付をうけました。

「象形言語説」発表の動機
どうしてこの時期に「象形言語説」などというオバケみたいな議論をはじめたのか?ご参考までに、前記「象形言語説による英語音韻論」の<あとがき>から要約、引用します。

69年のくれ、東京の兄のところで、なくなった父の葬儀をすませたあと、母校の東京外大をおとずれた。正面の校舎のカベに「帝国主義大学解体」など、はげしいコトバがペンキでかきなぐられていた。研究室のカベにも「○○よ、ただちに辞職せよ」といったおどし文句。「大学紛争」の中で、教授と学生たちとの間に共通のコトバが失われていることを見せつけられた。
いくつかの研究室をたずねて、教授たちにわたくしの仮説を説明し、いろいろ指導、助言をいただいた。よい勉強になったと感謝すると同時に、なんともいえないムナシサを感じていた。つまり「断絶」である。コトバにたいする感覚のズレである。
国語教育でも、外国語教育でも、「コトバの音声面」をだいじにするよう強調する。しかし「コトバは生きている」などという人でも、「コトバは発音そのものに意味がある」、「発音と意味とのあいだに、整然たる対応関係がある」というところまで、ふみこんで探求しようとはしない。これでは、コトバを生きたままの姿でとらえることはできないではないか?
わたしの場合、「発音と意味の対応関係を考えようとするのは、ムダですよ」という忠告が逆に作用して、「そういう常識をつきやぶって、あたらしい理論をうちだしてみよう」という気持になった。そのいきおいで、「象形言語説」までたどりついた。

2011年5月17日火曜日

北部中学・西部中学のころ 

北部中学校全景、1959.



 

北部中学宮井定義校長、1959



 

北部中学教職員、1959.



 

運転免許、1958



 

「漢字の歴史」、1958



 

西部中学校校舎、1963



 

西部中学校教職員、1963



 

北部中学校へ転勤
1957年3月末、 北部中学校へ転勤を命じられました。東部中学までは毎日自転車で通勤していましたが、こんどは自転車では無理。富山駅から東富山駅まで電車で通勤することにしました。


 

生徒指導担当で運転免許
学校では、英語の授業のほかに、生徒の生活指導を担当することになりました。こどもたちがいつ、どこで、どんな事故に巻きこまれるかもしれません。そんなとき、1分でも早く現場に駈けつけて、問題を処理するのが仕事です。自転車がないからといって、テクテク歩いてでは間にあいません。そこで1958年の夏休み、自動車学校に通って運転免許を取りました。クルマで移動できるようになったことで、生徒指導の面でも、通勤や私生活の面でも、たいへん便利になりました。まだ、クルマでの通勤がめずらしかった時代のことです。


 

宮井定義校長
1959年4月、宮井定義校長が赴任して来られました。下新川郡三日市(現黒部市)出身で、すこしナニワ節調のところがありますが、それだけ人情味があり、個人的にはたいへん親しみがもてる校長さんでした。わたしが教員組合の運動に熱心なことを承知の上で「特別昇給」させるなど、当時の富山市立中学校の校長としては、一風変わっていたかもしれません。


 

手さぐりの「民主化」
新制中学校の役割は、義務教育の仕上げ段階として、まがりなりにも一人前の民主主義を身につけた国民を社会へ送りだすことである。 わたしは、そう信じていました。
「こどもは親の背中を見て育つ」といわれるように、両親の役割も重要です。しかし、なによりまず教師自身が民主主義を実践し、お手本を見せることがたいせつ。職場の民主化を実現できない教師は、生徒に向かって民主主義を説く資格も能力もあるわけないでしょう。そして、その職場の民主化をささえるものが教育労働者の組合、つまり教員組合のはずです。
宮井校長は生徒指導にも熱心で、暴力ざたをおこした生徒を校長室に呼んで、直接指導することがあり、たまたま柔道の足技をかけるみたいな場面もありました(さいわい、ケガはなし)。生徒指導担当として立ちあっていたわたしは、ただオロオロしているだけ、なにもできませんでした。いま思いかえしてみれば、生徒指導担当として落第ですね。まずは、日ごろの生徒指導が不十分だったことをおわびしたうえで、万が一にも生徒にケガのないよう校長先生に自制をお願いすべきでした。
会議などの場で正面から「民主化」を議論することはできていましたが、身近なところで「民主化」を実現する技術がまだ身についていませんでした。


 

「主体的学習」と「集団競争」
1959年7月、職員研修会議に提出した討議資料コピーの要点を紹介します。
「主体的学習」と「集団競争」…学力水準をたかめるための一つの提案
①北部中学校生徒たちの学力について実態を確かめ、具体的な到達目標を設定する。
②確実に目標まで到達できるような学習指導法を準備する。
③受動的な学習をやめ、主体的な学習をめざす。
④「集団競争」という評価法をとりいれる…以下省略。
もちろん、これは研修会議の討議資料であり、学校運営に直結する職員会議の資料ではありません。しかし、このころまでは職場で、この種の提案・討論ができたことがわかるかと思います。


 

能力別学級のこころみ
当時どこの中学校でも、「生徒の能力差に応じた学習指導」をテーマにした研究が流行していました。
「学習は、個別に成立する」、したがって「個別指導」が理想。しかし、実態は(50人ほどの)「一斉授業」。そこで、いろんな提案があり、実験がおこなわれました。北部中学では宮井校長の主導で、2年間(1961~1962)かけて「能力別学級」の実験をすすめました。要点だけ紹介します。
①国語・数学・英語の3教科について、能力別学級で授業を実施する。
②3個または2個の自然学級を解体して、ABCまたはABの能力別学級を編成する。
③おなじ1人の教師が、ABCすべての授業を担当する。
④(学級を数個のグループに分け)、グループ学習の方法をとりいれる…以下省略。
いずれにしても、学習の主体は生徒自身です。そこで、生徒たちがこの能力別学級編成をどう思ったか、実施当初や途中でアンケートもとりました。富山市中教研の英語部会でも報告しました。
しかし残念ながら1963年度末の異動で、わたしは西部中学校へ転勤となり、北部中学校の学校課題がその後どうなったのか、知る由もありません。能力別学級については、賛成、反対、評価はまちまちでしょうが、貴重な体験をさせていただいたと思っています。   


 

中国のモジ改革運動に関心
英語科の教材研究に追われる毎日でしたが、ヒマを見つけて中国語の学習をつづけ、とりわけ中国のモジ改革運動にかんする情報や資料を集め、機会があれば報告・発表していました。
1957.10. 「中国ニオケル文字改革ノ アシナミ」 カナノヒカリ424号(財団法人カナモジカイ機関紙)。
1958.3. 「漢字とカナとローマ字」 北中生徒会誌「曙光」。


 

「漢字の歴史」出版のこと
1956年12月ころ、東京外語の先輩、大阪市立大学教授香坂順一先生から「中国のモジ改革」にかんする解説書をつくるお話があり、たくさんの文献・資料が送りとどけられました。その翻訳と整理に追われる日々がつづきました。
1958年5月、 「漢字の歴史」(香坂・イズミ共著、江南書院)が出版されました。8月には、翁久允先生、下斗米晟先生はじめおおぜいの方々にご出席いただき、出版記念会も催されました。
しかし、わたしのミスで、このたびの出版は失敗に終わりました。
①タイトルを「漢字の歴史」としましたが、内容は「中国の文字改革運動の歴史」です。わたしは漢字の研究者ではありませんし、もともと「漢字の歴史」を語る資格も意志もありませんでした。
②当時のわたしは、著作を発表することの責任の重さがよくわかっていませんでした。とりわけ、作品の中に取りこんだ情報・資料の出典を明記することなどの点で、注意が不足し、初歩的なミスをおかしました。
香坂先生はじめ関係者の方々にご迷惑をかける結果となり、反省しきりです。


 

中国語講座を開講
「漢字の歴史」出版では失敗しましたが、中国語学習運動への熱意は変わりませんでした。
1961年2月20日から、週2回で3か月間、日中友好協会富山県支部主催の中国語講座で講師をつとめました。会場は富山労働会館2階会議室、テキストは「漢語教科書、上巻」(光生館)を使用しました。
受講生は、最年長は47歳の主婦。最年少は富山大学生。大学で中国語の講義を受けているが、もう少し突っこんで勉強したいとのこと。そのほか、新聞記者、労組役員、会社員など、計15名。平均年齢27才。(この項、「中国語学習の歩み」富山中国語同好会、1975による)


 

西部中学校へ転勤
1963年3月末、西部中学校へ転勤。
西部中学在勤は、わずか2年間。どれだけの仕事ができたか、教師としてどれだけ成長できたか、あまり記憶がのこっていません。校務分掌としては、ここでも生徒指導を担当。どこかで男子生徒が他校の生徒とケンカしてケガさせたという電話がはいると、すぐさま現場に駈けつける。ケガをした生徒さんの家をたずねて、保護者の方に頭を下げる…いまは、なつかしい思い出です。


 

「教育研究」の舞台うら
当時、西部中学校は「教育研究指定校」になっていました。
学校をあげての「研究発表会」を目前にしたある日、教務主任のH先生が病気で欠勤と聞かされました。心配になって、ご自宅にお見舞いにうかがいましたところ、なんと意外、先生はお元気でした。
「実は、学校にいては研究発表の資料づくりに集中できないので、発表会に間にあいそうもない。それで休暇を取って、自宅で仕事をすることにした」とのことでした。
数日後、研究発表会あとの講評で、市教委指導主事が「目からウロコが落ちた思い」と絶賛していました。
H先生、まことにご苦労様でした。


 

風にそよぐ市教組
あれからおよそ半世紀たちました。いろんな記憶がうすれてゆく中で、ひとつだけますます確実になってゆく記憶があります。それは、西部中学校に勤務した2年間が富山市教員組合にとって最大のピンチだったと思われることです。
富山市教組の組織自体にも問題があったかもしれません。県教組や日教組中央の指導にも問題があったかもしれません。とにもかくにも、富山市小中学校の教職員、つまり教育労働者の組織が分裂し、それまでほぼ100%の組織率をもっていた市教組が、あっという間に少数派になってしまいました。
教育労働者というのは、工場労働者とすこしちがいます。もともと「風にそよぐ葦」なんですね。口先で「民主主義」をとなえていても、ちょっと風が吹くと、たちまち「風前のともし火」状態になったりします。


 

いま思うこと
東日本大震災から2か月すぎたいま思うこと、考えさせられることがあります。
日本は、太平洋戦争で世界初の原発被害国になり、核兵器反対運動の先頭に立っていたはずです。それがこんどの福島原発の爆発事故で、世界最大(それともアメリカについで第2?)の核加害国になってしまいました。
「日教組つぶし」という津波がおしよせて、もろくも富山市教祖の組織がくずれました。市教組の1つや2つつぶれたって、どうってことありません。第2、第3の組合のおかげで「民主主義」「自主独立の精神」を身につけた国民を世に送りだすことができたのなら、脱帽します。でも、その逆ではこまります。
福島原発の爆発事故も、原発推進派のひとたちが反対派や慎重派を力づくで排除した結果でないと証明できればよいのですが。

2011年4月26日火曜日

東部中学校のころ③



中国語同好会、1952







輪読会テキスト(一部)





倉石先生来県、1953







語研⑥大会、1956







県日中③大会、1954






「ちんぐるま」第2号(表紙)、1956





「旅の人」あつかい
敗戦の翌年(1946)中国をはなれ、北海道まで帰る途中で予定を変更、富山にとどまることになりました。しかし、そのあとなかなか将来展望が開けませんでした。



なによりまず、まわりの人たちとの会話がうまくかみあわないのです。こちらは北海道うまれの大陸がえり。どちらかといえば大ざっぱで、荒けづり。富山の人は人情こまやかな反面、「旅の人(よそ者)」にいきなりホンネで語ろうとはしません。しばらくは「観察期間」で、タテマエどおりのコトバ(外交辞令)をくりかえすだけです。発言者のコトバのウラのウラまで読みとらないと、あとでとんでもないことになりかねません。


「親鸞の世界」を共通テーマに
東部中学ではじめて学級を担任したとき、なんとかして父兄の人たちとホンネで話しあいたいと考えました。わたしは「富山は真宗王国」と聞いていましたし、わたし自身「歎異抄」の愛読者で、「親鸞の押しかけ弟子」を自認していました。そこで、「親鸞の世界観・宇宙観」を話題にすることで「富山人」の仲間入りさせてもらえるのではと思いつきました。



浄土真宗西別院で仏教青年会の集会に参加したり、親鸞の研究者でもある作家岩倉政治さんのお宅へうかがってお話を聞いたりしました。また、自分なりに親鸞について学習した結果を「他力本願」、「他力本願と大衆路線」、「科学と宗教」などの作品にまとめ、まわりの人に見ていただいたこともあります。



客観的に見れば、あいかわらず「妄想と妄動」のくりかえしだったかもしれません。「アサキユメミシ…」だったかもしれません。しかし、たくさん失敗をくりかえしたおかげで、すこしだけ人間として成長できたかなとも考えています。




中国語研究サークル
1948年度かぎりで高校の中国語科がなくなり、中学校に転出して英語科担当になりましたが、それでもほそぼそと中国語学習はつづけていました。



当時はまだ富山大学に現代中国語の講座がありませんでしたが、漢文科の下斗米晟教授が現代中国文学作品の講読に意欲をもっておられました。



1952年1月20日、新湊市立町の蓮照寺で、「富山県中国語同好会」の結成式をあげました。蓮照寺住職で新湊高校教頭の増山乗真先生が世話役となり、下斗米晟先生をはじめ、小、中、高、大の学校、また一般社会人にも参加を呼びかけた結果です。当日の出席者は、お二人のほか中村朔雄、高畠順、田島秀雄、高岡(商船高校事務官)の各氏とイズミ、計7人。



毎月第3日曜日に例会を開き、午前中は「阿Q正傳」などの輪読会、午後は放談会。会場は、大学、高校などを順次持ちまわり。



1960年3月、下斗米先生が富山大学を定年退職され、(麗澤大学教授として)千葉市へ転住されましたが、翌年10月の第100回の例会には、お約束どおり参加されました。



1962年1月、増山先生のご都合で、連絡所をイズミ宅に変更。輪読会は、7月22日第109回目で終了しています。



輪読会参加者の中には、土谷多喜、筧三郎、草野成虎、須斎安次郎、尾島健次、野村芳郎、四津桂吉、堀田伊八郎、松井武男各氏の名が記録されています。(増山乗真「富山県中国語同好会のあゆみ」による。富山中国語同好会「中国語学習のあゆみ…富山、1975」所収)


倉石先生来県
1953年11月17日、東京大学教授で、NHK中国語講座講師の倉石武四郎先生が来県された機会に、同好会(当時は「富山県中國学会」と改称していました)として「倉石先生を囲む会」を企画しました。会場は富山ホテル2階ホール。会として基金があるわけでもないので、NHK富山放送局の対談番組に出演していただき、その出演料でやりくりしたりしました。また、ホテル代を節約するため、夜はイズミ宅に泊まっていただきました。


中國語研全国大会
「国語学研究会」は1946年に設立されたとのことですが、わたしが全国大会に参加したのは1954年10月金沢大学で開催された第6回大会が最初だったかと思います。



会期は土日の2日間。当時はまだ週休2日制ではありません。倉石武四郎会長から富山市立中学校長あての出張依頼状や案内状(当番校金沢大学鈴木直治教授と連名)がとどき、富山市教育長あてに出張届を提出して、ようやく参加することができました。


全国大会では毎回参加者全員の記念写真をとるのが恒例です。手元にある中では、第6回大会(1955年、早稲田大学)の写真がいちばん古いようです。倉石先生と並んで、実藤恵秀、香坂順一、伊地智善継など諸先生の姿が見えます。




日中友好運動
1951年12月、「日本人民におくる公開状」(郭沫若作。9/4人民日報所載)を日本語に翻訳して、知人たちに配布しました。
1953年5月24日、富山ホテル2階で「日中友好協会県支部連合会」結成に参加。会長に重松為治、副会長に山本宗間、四橋銀太郎、理事長に小林茂松、理事に花井益一、広島茂一、須斎安次郎、前川正美、湯浅治作、イズミなど14名が選出されました。




平和運動に参加
1953年5月5日、富山ホテルで開かれた「富山県平和懇談会」結成総会に参加。世話人(広島茂一、永崎徹、花井益一、岩倉政治、森川友明、小林若明など14名)の一員に選出されました。
6月、 平和懇談会第2回総会に参加。議長:永崎徹(永宗寺住職)。経過報告:イズミ。
8月9日、東別院、西別院で開催された「富山県戦争犠牲者追悼平和祭」に参加。
1955年11月、 イズミ宅で「原爆被曝者の声を聞く座談会」を開きました。話し手は広島で被曝された上松都恵さん(当時小4)。イズミが筆記して、同人誌「ちんぐるま」1~3号にのせました。


ちんぐるまの会
1956年1月8日、富山ホテルで「ちんぐるまの会」設立総会。同人誌「ちんぐるま」創刊号を発行。
会長翁久允(高志人主宰)、副会長米屋芳夫(北一ゴム商事専務)、イズミ オキナガ(教員)。
会員には、高校生や大学生から一般社会人まで、まわり中の人にお願いして入会していただきました。
翁久允先生には、姻戚関係(兄泉長嘉の妻ハルさんが先生の姪)をたよりに、むりやり会長になっていただきました。
創刊号表紙のデザインは村井究光さんに、題字は翁会長にお願いしました。そして、タイプ印刷32ページの中に、創作、評論、詩、短歌、俳句など30の作品をおさめました。
「ちんぐるまの会」は雑誌を発行するだけでなく、テーマをきめて座談会を開いたり、岩瀬浜での海水浴や大山寺公園へのハイキングなどを実施したりしました。


雑誌「ちんぐるま」は第6号まで発行されました。しかし1957年3月、イズミが北部中学校へ転勤を命じられ、これまでのように自由な行動ができなくなったことから、「ちんぐるま」(=稚児車。小さな車)も回転停止状態に追いこまれました。せっかく応援してくださったみなさんには、申しわけないことをしました。



いまにして思えば、学級機関紙「カガミ」にとりくんだときの情熱がそのまま雑誌「ちんぐるま」発行に受けつがれていました。そして、雑誌「ちんぐるま」は第6号でストップしましたが、わたしの大脳の中の「ちんぐるま」はそのごも回転をつづけ、やがて「象形言語説による英語学習基本語彙集」(1971)、「コトダマの世界」(1991)、「現代日本語音図(試案)」(2008)などの作品を生みだす原動力になりました。

2011年4月12日火曜日

東部中学校のころ②



2年A組(1953)





学級機関誌「カガミ」10号





バリー先生の手紙(部分)





バリー先生の手紙(封筒)






学級の経営方針


1953年4月、2年A組を担任するにあたって、生徒や父兄のみなさんとも相談の上、「ことしの目標、2項目」を設定しました。


①みんなで仲よく生活する(生活指導)。「男女共学」が実施されてから数年たっていましたが、「民主主義」や「男女同権」はただのスローガン、タテマエ論だけ。学級生活の中で、毎日のようにケンカがあり、とくに男子生徒が女子生徒に暴力をふるう事件がつづいていました。中学校は義務教育の「仕上げ段階」です。中学校生活の中で、なんとしても「民主主義」や「男女同権の意識」を身につけさせたい。そんな願いをこめて、「みんな仲よく」という目標を立てました。 具体的には、毎日終礼のホームルームの時間に「反省会」を開くことにしました。


②自分からすすんで学習する(学習指導)。教師や親から責めたてられ、いやいやながら「勉強」していても、学習効果は期待できません。「おもしろいから、やる」、「デキル・ワカルようになったから、つぎのステップに挑戦する」というようにしたい。学習するのは生徒本人ですが、学習意欲をそそるような環境作りをするのは、教師や親の役割だと思います。具体的には、「グループ学習」の方法を提案し、実験してみました。


学級機関誌「カガミ」


学級経営の目標を達成するためには、教師と生徒と父兄の合作協力が必要です。そこで、生徒や父兄に呼びかけて、2年A組だけの連絡機関誌「カガミ」を発行することにしました。父兄からは、「学級機関紙発行に賛成、ただし、1回か2回発行して、あとは続かないのが通例…民主主義の実現は1日にして成らず、わかい学生の日常生活を通じ、体験によって真の自由主義を学びとらせることが第一義的だと思います…」などの意見が寄せられました。年度当初から翌年3月までの1年間に、第15号まで発行しました。ザラ紙B5判、延べ90ページ。写真でごらんのとおり、ガリバンの技術もへたくそで、よみにくい機関紙になりましたが、生徒も父兄もよくガマンしてつきあっていただきました。わたしは絵の才能がないので、カットなどはおもに同僚の畔田三郎先生(その後高校へ転出)に応援していただきました。また、第11号「夏休みの生活から」のように、編集委員の生徒たち8人の手で編集・制作したものもあります(ガリ版、B5版14ページ)。


「反省会」と「反省文」


毎日終わりのホームルームの時間に、だれかから提案があれば、すぐ「反省会」に切りかえました。いちばん多かったのが、男子生徒の女子生徒への腕力ざたでした。加害者がひとこと「ゴメンナサイ」といえば、それで一件落着というのが原則でしたが、そのヒトコトがなかなか出てきません。反省会の時間が長びいて、クラブ活動に遅刻するという苦情もでてきました。それでも、わたしは「反省会」を優先してきました。「カガミ」第8号で「反省会の記録」を特集。9人の作文(反省会の議決で、作文提出を課されたもの)をのせています。形式的な反省文ではなく,ひとりひとりのホンネが書かれていて、いま読みかえしてみてもおもしろい。まさしく「人間成長の記録」です。


アメリカだより


「カガミ」第12号で、スチブサント バリーさんからいただいた手紙を「アメリカだより」として紹介しました。バリーさんのことは、前記パール バック女史からご紹介いただきました。200年の伝統をもつ、クエーカー教の学校の校長先生です。その手紙の中でバリーさんは、わたしの質問にこたえて、小学校経営の経験を語られました。「黒人やユダヤ人に対する偏見。アバレモノ。ケンカから仲直りまで」など。クエーカー教は、絶対平和主義を固く守り、戦争中でも公然と兵役を免除されてきた宗派だそうです。


「投書事件」のこと


7月3日、わたしは校長先生から質問されました。「教育委員会に呼ばれて、こんな話を聞いた。先日、ある父兄からとして、投書があった。『うちの子が学校でイズミ先生からこんな話(皇太子殿下の欧米旅行について批判)を聞いてきた…』という内容。君は、じっさいそんなことを生徒に言ったことがあるのか?」「わたしはホームや反省会ではたいてい議長や記録者をおいて進行しています。わたし自身、そんなこと言った記憶はありませんが、直接生徒におたずねくだされば、はっきりすると思います」発言した本人が忘れていても、きいた生徒が覚えているかもしれません。念のために、翌日朝、ホームの全生徒にたずねてみました。さらに、「カガミ」(第10号)で、「校長先生のご意見」もそえて経過を報告し、父兄にアンケートを求めました。たくさんの回答が寄せられましたが、「投書」の内容を裏づけるようなものはゼロでした。


「反省会」の反省


6月にあった父兄会のときの話です。授業参観のあと懇談会が予定されており、18人の父兄が参加されました。第6限に予定の授業が、学校の都合で急にホームルームに変更されました。2年A組、終礼のホームルームはいつも「反省会」形式で進行されます。この日の議長はK子さん。議題は①授業時間中の態度。②机にこしかけること。③その他。生徒たちがあまりはげしく討論するので、参観していた父兄の方々は内心びっくりしておられたようです。そのうち、一人の男子生徒の発言が波紋をよびました。「先生方の中にも、机に腰かけられる人があるから、僕たちだってかまわないと思う」「先生のすることは、どんなことでもまねしてよいとおもいますか?」 その「反省会」から60年ちかくなります。テレビで国会中継を見ていて、つくづく思います。「子供は、親の背中を見て育つ」といわれますが、国会議員の先生たちは子供たちにどんな背中を見せておられるでしょうか?「2年A組の反省会」とくらべて、質的にどれくらい進歩しているといえるでしょうか?

2011年3月29日火曜日

東部中学校のころ①



東部中学職員、1952





東部中学職員、1953





連合英語祭プログラム





パールバック女史の手紙など





高松宮杯英語弁論大会出場




中学校教員に転出


新制高校で中国語科が廃止されたため、わたしは職場を失いかけましたが、さいわい富山市の中学校で英語科教員として勤務することができました。


英語は専攻外の科目であり、自信もなかったのですが、義務教育の仕上げ段階としての中学校教育はやりがいのある仕事です。 「こどもたちといっしょに勉強して、一人前の教師になりたい」と思いました。



富山市立東部中学校


1949年4月、富山市立東部中学校教諭(英語)を拝命。当時は三代校長熊谷茂(1948~1951)、桐井愛次教頭(1947~1952)のコンビでした。ここで8年間勤務させていただき、おおぜいの先輩や同僚に出あうことができました。



熊谷茂校長


熊谷校長は富山薬專の出身で、おおらかな人柄でした。重松薬房の会長重松為治(後の富山県日中友好協会会長)とも親しかったようで、ある日とつぜん体育館に全校生徒を集めて、内山完造さんの講演会が開かれました。あとで考えてみますと、1950年10月に日中友好協会(初代会長、松本治一郎。理事長、内山完造)が成立していますので、内山さんが富山へ見えたのも、協会の地方組織を固める全国行脚の一環だったかと思われます。



一井梅一校長


熊谷校長のあとが一井梅一校長(1952~1958)です。私事になりますが、一井先生と石金直義先生(1947~1951)のお二人は、妻信子の恩師です。女学校時代バスケットボール部に所属し、さんざんお世話になったそうです。


一井先生は、世間知らずでとかく暴走しそうなわたしのことを心配して、いろいろ助言していただきました。あとで触れますが、わたしの言動について「投書」事件がおこったときなど、「公務員として公正中立の立場をまもること」を教えられました。



東部中学の教師陣


1952年度と1953年度との教職員の写真を並べてみました。全体の顔ぶれはあまり変わっていませんが、学校長の両わきなど陣がまえが変化しています。52年度の写真では、一井校長のわきを桐井教頭・石金直義(教務)・富山良次(生徒指導)の3人で固めていました。それが53年度は、一井校長と富山先生(生徒指導)の席は前年通りですが、左どなり(教務)の席に中沖修先生(1950~1957)が写っています。


このころの先輩や同僚には、生涯忘れられない方たちがおおぜいいます。上田捨吉先生(1950~1957)とは、学年主任と学級担任のコンビで2度(第5回、第8回)も卒業生を送らせていただきました。また、同学年の学級担任仲間に三辺義雄・石田光明・桐井利明・武子梅雄・笹倉重雄・阿原秀雄・畔田三郎・中島正雄諸先生がいました。



中沖修先生


のちに富山市教育長になられただけあって、中沖修先生が東部中学校に着任されてからの活躍ぶりは、まわりの人の目を見張らせるものがありました。


その一例として、「第4回富山市中学校連合英語祭」のプログラム(表紙)をご覧にいれます。1952年 11月9日、東部中学校講堂で開催された時のものです。ざら紙B4判の二つ折り。見開きに英語の歌、朗読、劇などのプログラムをガリ版印刷。これが中沖先生直筆の手作りでした。



パールバック女史からの手紙


当時郵便局からの応援もあって、市内の中学校で「郵便友の会」(Pen Friend Club、略称P. F. C.)が組織されました。たまたま富山市中教研英語部会の席で、富山大学助教授須沼吉太郎先生がパール バック女史(「大地」の著者)からの手紙を披露されました。わたしは、かねがね東部中学の生徒たちとアメリカの子供たちとの文通運動を進めたいと考えていましたので、須沼先生に紹介していただき、女史あてにお願いの手紙を出しました。


半ばあきらめていたところ、ていねいなご返事の手紙がとどきました。「当地の私立学校の校長先生を紹介する」という内容でした。その手紙などを東部中学P.F.C.活動の一環として、学園祭に出品展示しました。


残念ながら、この手紙の現物は、いまわたしの手元にありません。どこかの新聞社か出版社から借用の申し出があり、気前よく渡してしまいましたが、それっきり行方不明のままです。



高松宮杯、英語弁論大会


1953年、T君が「高松宮杯、英語弁論大会」に出場しました。出場できたのは、本人のゆたかな天分とたゆまぬ努力によるものですが、出場を前に須沼吉太郎先生から格別のご指導をいただけたことに感謝しています。