2011年4月26日火曜日

東部中学校のころ③



中国語同好会、1952







輪読会テキスト(一部)





倉石先生来県、1953







語研⑥大会、1956







県日中③大会、1954






「ちんぐるま」第2号(表紙)、1956





「旅の人」あつかい
敗戦の翌年(1946)中国をはなれ、北海道まで帰る途中で予定を変更、富山にとどまることになりました。しかし、そのあとなかなか将来展望が開けませんでした。



なによりまず、まわりの人たちとの会話がうまくかみあわないのです。こちらは北海道うまれの大陸がえり。どちらかといえば大ざっぱで、荒けづり。富山の人は人情こまやかな反面、「旅の人(よそ者)」にいきなりホンネで語ろうとはしません。しばらくは「観察期間」で、タテマエどおりのコトバ(外交辞令)をくりかえすだけです。発言者のコトバのウラのウラまで読みとらないと、あとでとんでもないことになりかねません。


「親鸞の世界」を共通テーマに
東部中学ではじめて学級を担任したとき、なんとかして父兄の人たちとホンネで話しあいたいと考えました。わたしは「富山は真宗王国」と聞いていましたし、わたし自身「歎異抄」の愛読者で、「親鸞の押しかけ弟子」を自認していました。そこで、「親鸞の世界観・宇宙観」を話題にすることで「富山人」の仲間入りさせてもらえるのではと思いつきました。



浄土真宗西別院で仏教青年会の集会に参加したり、親鸞の研究者でもある作家岩倉政治さんのお宅へうかがってお話を聞いたりしました。また、自分なりに親鸞について学習した結果を「他力本願」、「他力本願と大衆路線」、「科学と宗教」などの作品にまとめ、まわりの人に見ていただいたこともあります。



客観的に見れば、あいかわらず「妄想と妄動」のくりかえしだったかもしれません。「アサキユメミシ…」だったかもしれません。しかし、たくさん失敗をくりかえしたおかげで、すこしだけ人間として成長できたかなとも考えています。




中国語研究サークル
1948年度かぎりで高校の中国語科がなくなり、中学校に転出して英語科担当になりましたが、それでもほそぼそと中国語学習はつづけていました。



当時はまだ富山大学に現代中国語の講座がありませんでしたが、漢文科の下斗米晟教授が現代中国文学作品の講読に意欲をもっておられました。



1952年1月20日、新湊市立町の蓮照寺で、「富山県中国語同好会」の結成式をあげました。蓮照寺住職で新湊高校教頭の増山乗真先生が世話役となり、下斗米晟先生をはじめ、小、中、高、大の学校、また一般社会人にも参加を呼びかけた結果です。当日の出席者は、お二人のほか中村朔雄、高畠順、田島秀雄、高岡(商船高校事務官)の各氏とイズミ、計7人。



毎月第3日曜日に例会を開き、午前中は「阿Q正傳」などの輪読会、午後は放談会。会場は、大学、高校などを順次持ちまわり。



1960年3月、下斗米先生が富山大学を定年退職され、(麗澤大学教授として)千葉市へ転住されましたが、翌年10月の第100回の例会には、お約束どおり参加されました。



1962年1月、増山先生のご都合で、連絡所をイズミ宅に変更。輪読会は、7月22日第109回目で終了しています。



輪読会参加者の中には、土谷多喜、筧三郎、草野成虎、須斎安次郎、尾島健次、野村芳郎、四津桂吉、堀田伊八郎、松井武男各氏の名が記録されています。(増山乗真「富山県中国語同好会のあゆみ」による。富山中国語同好会「中国語学習のあゆみ…富山、1975」所収)


倉石先生来県
1953年11月17日、東京大学教授で、NHK中国語講座講師の倉石武四郎先生が来県された機会に、同好会(当時は「富山県中國学会」と改称していました)として「倉石先生を囲む会」を企画しました。会場は富山ホテル2階ホール。会として基金があるわけでもないので、NHK富山放送局の対談番組に出演していただき、その出演料でやりくりしたりしました。また、ホテル代を節約するため、夜はイズミ宅に泊まっていただきました。


中國語研全国大会
「国語学研究会」は1946年に設立されたとのことですが、わたしが全国大会に参加したのは1954年10月金沢大学で開催された第6回大会が最初だったかと思います。



会期は土日の2日間。当時はまだ週休2日制ではありません。倉石武四郎会長から富山市立中学校長あての出張依頼状や案内状(当番校金沢大学鈴木直治教授と連名)がとどき、富山市教育長あてに出張届を提出して、ようやく参加することができました。


全国大会では毎回参加者全員の記念写真をとるのが恒例です。手元にある中では、第6回大会(1955年、早稲田大学)の写真がいちばん古いようです。倉石先生と並んで、実藤恵秀、香坂順一、伊地智善継など諸先生の姿が見えます。




日中友好運動
1951年12月、「日本人民におくる公開状」(郭沫若作。9/4人民日報所載)を日本語に翻訳して、知人たちに配布しました。
1953年5月24日、富山ホテル2階で「日中友好協会県支部連合会」結成に参加。会長に重松為治、副会長に山本宗間、四橋銀太郎、理事長に小林茂松、理事に花井益一、広島茂一、須斎安次郎、前川正美、湯浅治作、イズミなど14名が選出されました。




平和運動に参加
1953年5月5日、富山ホテルで開かれた「富山県平和懇談会」結成総会に参加。世話人(広島茂一、永崎徹、花井益一、岩倉政治、森川友明、小林若明など14名)の一員に選出されました。
6月、 平和懇談会第2回総会に参加。議長:永崎徹(永宗寺住職)。経過報告:イズミ。
8月9日、東別院、西別院で開催された「富山県戦争犠牲者追悼平和祭」に参加。
1955年11月、 イズミ宅で「原爆被曝者の声を聞く座談会」を開きました。話し手は広島で被曝された上松都恵さん(当時小4)。イズミが筆記して、同人誌「ちんぐるま」1~3号にのせました。


ちんぐるまの会
1956年1月8日、富山ホテルで「ちんぐるまの会」設立総会。同人誌「ちんぐるま」創刊号を発行。
会長翁久允(高志人主宰)、副会長米屋芳夫(北一ゴム商事専務)、イズミ オキナガ(教員)。
会員には、高校生や大学生から一般社会人まで、まわり中の人にお願いして入会していただきました。
翁久允先生には、姻戚関係(兄泉長嘉の妻ハルさんが先生の姪)をたよりに、むりやり会長になっていただきました。
創刊号表紙のデザインは村井究光さんに、題字は翁会長にお願いしました。そして、タイプ印刷32ページの中に、創作、評論、詩、短歌、俳句など30の作品をおさめました。
「ちんぐるまの会」は雑誌を発行するだけでなく、テーマをきめて座談会を開いたり、岩瀬浜での海水浴や大山寺公園へのハイキングなどを実施したりしました。


雑誌「ちんぐるま」は第6号まで発行されました。しかし1957年3月、イズミが北部中学校へ転勤を命じられ、これまでのように自由な行動ができなくなったことから、「ちんぐるま」(=稚児車。小さな車)も回転停止状態に追いこまれました。せっかく応援してくださったみなさんには、申しわけないことをしました。



いまにして思えば、学級機関紙「カガミ」にとりくんだときの情熱がそのまま雑誌「ちんぐるま」発行に受けつがれていました。そして、雑誌「ちんぐるま」は第6号でストップしましたが、わたしの大脳の中の「ちんぐるま」はそのごも回転をつづけ、やがて「象形言語説による英語学習基本語彙集」(1971)、「コトダマの世界」(1991)、「現代日本語音図(試案)」(2008)などの作品を生みだす原動力になりました。

2011年4月12日火曜日

東部中学校のころ②



2年A組(1953)





学級機関誌「カガミ」10号





バリー先生の手紙(部分)





バリー先生の手紙(封筒)






学級の経営方針


1953年4月、2年A組を担任するにあたって、生徒や父兄のみなさんとも相談の上、「ことしの目標、2項目」を設定しました。


①みんなで仲よく生活する(生活指導)。「男女共学」が実施されてから数年たっていましたが、「民主主義」や「男女同権」はただのスローガン、タテマエ論だけ。学級生活の中で、毎日のようにケンカがあり、とくに男子生徒が女子生徒に暴力をふるう事件がつづいていました。中学校は義務教育の「仕上げ段階」です。中学校生活の中で、なんとしても「民主主義」や「男女同権の意識」を身につけさせたい。そんな願いをこめて、「みんな仲よく」という目標を立てました。 具体的には、毎日終礼のホームルームの時間に「反省会」を開くことにしました。


②自分からすすんで学習する(学習指導)。教師や親から責めたてられ、いやいやながら「勉強」していても、学習効果は期待できません。「おもしろいから、やる」、「デキル・ワカルようになったから、つぎのステップに挑戦する」というようにしたい。学習するのは生徒本人ですが、学習意欲をそそるような環境作りをするのは、教師や親の役割だと思います。具体的には、「グループ学習」の方法を提案し、実験してみました。


学級機関誌「カガミ」


学級経営の目標を達成するためには、教師と生徒と父兄の合作協力が必要です。そこで、生徒や父兄に呼びかけて、2年A組だけの連絡機関誌「カガミ」を発行することにしました。父兄からは、「学級機関紙発行に賛成、ただし、1回か2回発行して、あとは続かないのが通例…民主主義の実現は1日にして成らず、わかい学生の日常生活を通じ、体験によって真の自由主義を学びとらせることが第一義的だと思います…」などの意見が寄せられました。年度当初から翌年3月までの1年間に、第15号まで発行しました。ザラ紙B5判、延べ90ページ。写真でごらんのとおり、ガリバンの技術もへたくそで、よみにくい機関紙になりましたが、生徒も父兄もよくガマンしてつきあっていただきました。わたしは絵の才能がないので、カットなどはおもに同僚の畔田三郎先生(その後高校へ転出)に応援していただきました。また、第11号「夏休みの生活から」のように、編集委員の生徒たち8人の手で編集・制作したものもあります(ガリ版、B5版14ページ)。


「反省会」と「反省文」


毎日終わりのホームルームの時間に、だれかから提案があれば、すぐ「反省会」に切りかえました。いちばん多かったのが、男子生徒の女子生徒への腕力ざたでした。加害者がひとこと「ゴメンナサイ」といえば、それで一件落着というのが原則でしたが、そのヒトコトがなかなか出てきません。反省会の時間が長びいて、クラブ活動に遅刻するという苦情もでてきました。それでも、わたしは「反省会」を優先してきました。「カガミ」第8号で「反省会の記録」を特集。9人の作文(反省会の議決で、作文提出を課されたもの)をのせています。形式的な反省文ではなく,ひとりひとりのホンネが書かれていて、いま読みかえしてみてもおもしろい。まさしく「人間成長の記録」です。


アメリカだより


「カガミ」第12号で、スチブサント バリーさんからいただいた手紙を「アメリカだより」として紹介しました。バリーさんのことは、前記パール バック女史からご紹介いただきました。200年の伝統をもつ、クエーカー教の学校の校長先生です。その手紙の中でバリーさんは、わたしの質問にこたえて、小学校経営の経験を語られました。「黒人やユダヤ人に対する偏見。アバレモノ。ケンカから仲直りまで」など。クエーカー教は、絶対平和主義を固く守り、戦争中でも公然と兵役を免除されてきた宗派だそうです。


「投書事件」のこと


7月3日、わたしは校長先生から質問されました。「教育委員会に呼ばれて、こんな話を聞いた。先日、ある父兄からとして、投書があった。『うちの子が学校でイズミ先生からこんな話(皇太子殿下の欧米旅行について批判)を聞いてきた…』という内容。君は、じっさいそんなことを生徒に言ったことがあるのか?」「わたしはホームや反省会ではたいてい議長や記録者をおいて進行しています。わたし自身、そんなこと言った記憶はありませんが、直接生徒におたずねくだされば、はっきりすると思います」発言した本人が忘れていても、きいた生徒が覚えているかもしれません。念のために、翌日朝、ホームの全生徒にたずねてみました。さらに、「カガミ」(第10号)で、「校長先生のご意見」もそえて経過を報告し、父兄にアンケートを求めました。たくさんの回答が寄せられましたが、「投書」の内容を裏づけるようなものはゼロでした。


「反省会」の反省


6月にあった父兄会のときの話です。授業参観のあと懇談会が予定されており、18人の父兄が参加されました。第6限に予定の授業が、学校の都合で急にホームルームに変更されました。2年A組、終礼のホームルームはいつも「反省会」形式で進行されます。この日の議長はK子さん。議題は①授業時間中の態度。②机にこしかけること。③その他。生徒たちがあまりはげしく討論するので、参観していた父兄の方々は内心びっくりしておられたようです。そのうち、一人の男子生徒の発言が波紋をよびました。「先生方の中にも、机に腰かけられる人があるから、僕たちだってかまわないと思う」「先生のすることは、どんなことでもまねしてよいとおもいますか?」 その「反省会」から60年ちかくなります。テレビで国会中継を見ていて、つくづく思います。「子供は、親の背中を見て育つ」といわれますが、国会議員の先生たちは子供たちにどんな背中を見せておられるでしょうか?「2年A組の反省会」とくらべて、質的にどれくらい進歩しているといえるでしょうか?