2011年2月22日火曜日

華北交通のころ⑤

青年隊員たちの戦後


「華交」No.132



「長安」1号




華交互助会解散大会




カルガン会旅行(1993.鳥羽・伊勢)




華北交通互助会
華北交通株式会社は1945年日本敗戦とともに消滅しましたが、旧社員たちが1946年4月に、社団法人として「華北交通互助会(略称:華交互助会)を組織し、機関紙「華交」を発行してきました。わたしの手元には、No.168(1999.8.1)まで届いています。

「華交」No.132(1989.10.1.写真)で「特集、日中友好の絆」が企画されたおり、増尾操理事長から応募するようお話があり、「程站長のこと」という一文を載せていただきました。塘山站構内助役で、わたしが「日本国かならず滅びん」という論文を書く動機にもなった、あの「程站長」の思い出話です

戦後五十余年、2000年10月20日、熱海のホテルニューアカオで、ついに「華交互助会解散大会」の日をむかえることになりました。上掲の写真は、カルガン会員紀野清江さんの写真集から借用しました。

華交互助会の傘下には、部門別・地域別・年次別など、たくさんの団体が組織されていました。わたしは「長安会」、「一六会」、「カルガン会」の会員ということになります。


長安会
大学・高専卒定期採用社員の団体です。1974年に機関誌「長安」1号(写真)を発行、2004年の「終刊号」、2006年の「近況録」まで、40号を数えました。

長安会の構成メンバーは、1940(昭和15)年採用組から年次別に「仁六会」、「一六会」、「日輪会」、「一八会」、「天晴会」、「体当会」に分かれています。

張家口鉄路医院の医師で「体当会」の菅原恒有さんは、「長安」誌に2回投稿しています。

「…賜児山麓もすっかり市街化しており、青年隊舎の跡を探したが、どこか見当がつかなかった。青年隊幹事だった私は、同じく幹事だった泉興長君(一六)の隊舎に押し掛け、ストーブを囲みながら議論した青春の一齣も忘れ難い思い出である…」(23号、「北京・大同・訪問記」)

「…青年隊舎には家族持ちの隊舎長のほか泉興長君と網野君、それに私の三人の幹事がいた。青年隊舎では、河南作戦に伴い鄭州派遣となり空いていた外科の宮下先生の隊舎に入った。煉瓦造りの支奈家屋風で、広い土間と一段高い畳敷きの場所があった…

青年隊舎に居るときは、よく泉君夫妻の部屋に押し掛けてお喋りをした。夜更けに遠く汽笛が聞こえると「今夜も我が社の火車が無事走っている。」と皆で話し合った…」(32号、「張家口の思い出」)

わたしも「長安」誌に10回ほど投稿させていただきました。「新中国のこどもたちの眼のかがやき」(1号)、「中国語学習30余年」(2号)、「中国のモジとコトバ」(3号)、「秦皇島市をたずねて」(22号)、「程站長のこと」(25号)、「スミでsmeltする技術者=スミノエ神」(30号)、「ジグザグ人生①…8/14夜の張家口…Y氏の和平工作」(31号)、「ジグザグ人生②…八達嶺の日本兵…八路軍の評判」(32号)、「ジグザグ人生③…菅原医師…大陸鉄道のユメ…飛ぶ鳥の宿る姿や大雁塔」(33号)、「八十のてならい…パソコン練習…日・漢・英の共通語根をさぐる」(34号)など。


カルガン会
張家口鉄路局文書科に在籍していた人たちの組織がカルガン会です。たしか1970年の大阪万博を機会に、全国規模の集会が組織され、そのご2000年の華交互助会解散まで、活発な活動をつづけました。

カルガン会は、毎年のように懇親旅行を実施してきました。その旅行先は;
名古屋千種会館(1979)、 鬼怒川温泉・日光(1984)、 奈良春日ホテル(1985)、 箱根(1987, 1994)、 別府温泉(1991)、 琵琶湖畔ホテル紅葉(1992, 1999)、 鳥羽・伊勢(1993)、 萩・津和野・山口(1995)、 熱海ニューアカオ(2000)など。

この活動を支えた原動力は、なんといっても中山哲夫(華交互助会理事)さんの資金援助によるものですが、あわせて「文書科浄書室」の女性軍がもつ生命力によるものといえるでしょう。

2011年2月15日火曜日

華北交通のころ④


八路軍との出会い



居庸関跡

1981年撮影。道路がりっぱに舗装されるなど、すっかり現代的な観光地に変化していました。


八達嶺周辺

これも同日撮影。長城線近くの風景は、1,945年当時とあまり変わっていない感じでした。


北京周辺地図(「中華人民共和国分省地図集」による)

1945年12月下旬から翌年2月にかけて、涿鹿県~承徳間を往復しました。新保安~懐来~延慶~永寧~四海~瑠璃廟~湯河口~長哨営~虎什哈~灤平~張百湾~灤河~承徳のコースです。


青竜橋のYさん
天津(塘沽)の陸軍貨物倉庫にいたとき、Yさんから「張家口へもどらないか」とさそわれました。「しばらく中共八路軍あるいはソ連の流儀を学習するのも、日本再建のために役立つだろう」と考えて、Yさんといっしょに行動することにしました。

Yさんは、青竜橋(八達嶺の南)の工務段で保線を担当。静岡県焼津の出身で、清水の次郎長とも縁があり、また中国の地下組織チンバン[青幇]の会員でもあるとのことでした。

Yさんは在職中、八路軍と交渉して担当区間の線路の安全を確保してきました。八路軍がわの要求(悪質な地域ボスの排除、医療器具や資材の調達など)を会社や軍の上層部に伝えて受けいれさせ、八路軍にも区間線路を破壊しないことを約束させていました。



八達嶺を越える
敗戦から2か月、10月なかばになっても、日本軍の兵士が武装したまま、八達嶺の関門を警備していました。そんなある日、わたしは中国人に成りすまし、検問所を通って八路軍地区にはいりました。Yさんは、別ルートを回り道していったのですが、わたしは顔がバレていないので、正面突破をこころみたわけです。いうなれば「密出国」。ワカゲノイタリ。もう一度やれといわれても、とてもできません。

検問所では、小銃のさきに銃剣をつけた2名の日本軍兵士が、通行人を検問していました。敗戦国の兵士が、戦勝国の中国農民たちに最敬礼をさせ、所持品検査をしていたのです。わたしの前にいた老人の荷物検査中に、兵士がなにか一品没収しました。老人は「それは孫のために買ってきたお菓子だから…」と抗議しましたが、兵士は知らん顔。「ヅオー(行け)!」と、どなりつけてオシマイ。

「そんなミットモナイことをするな!」と叫びそうになりましたが、じっとガマン。ふかふかと最敬礼をして、身体検査を受ける。それだけで無事検問所を通過しました。

そこから数百メートル先の山かげに八路軍の兵士が、銃をさかさに肩にかけて立っていました。その八路軍兵士の目に、わたしの姿が「不審者」と映ったようです。ただちに身柄拘束。詰所まで連行され、そこで朱隊長に連絡が取れ、解放されました。

じつは、まえにいちどYさんの案内で、天津から別ルートで八路軍地区にはいり、朱隊長に会っていました。朱隊長は保定軍官学校出身の青年将校。わたしが中国語を話せるときいて、ねっしんに語りかけてきました。朱隊長の目的は、「八路軍による、日本軍の武装解除」だったようです。


八達嶺の日本軍警備隊
それから数日後、Yさんといっしょに八達嶺の日本軍警備隊長をたずねました。Yさんから「八路軍による武装解除をうけてほしい」という八路軍の意向をつたえるためでした。具体的な内容は記憶していませんが、結果としてYさんの和平工作は失敗におわりました。


兵舎うらのラクガキ
ひとつだけ、今でもはっきり思いうかぶ光景があります。警備隊長との話しあいがおわって、かえりぎわに兵舎のまわりを見てあるいたときのことです。便所のうらがわのドロカベに、こんなラクガキを見つけました。

 山のあなたの空遠く    「幸」住むと人のいふ。
 噫、われ人と尋めゆきて、  涙さしぐみかえりきぬ、
 山のあなたになほ遠く   「幸」住むと人のいふ。(カール・ブッセ作、上田敏訳)

ここの警備隊は、全員が幹部候補生とのこと。敗戦から2か月がすぎ、なおも国境警備の任務をおわされる兵士たちのムネのうちをのぞきみる思いがしました。



ソ連兵の姿なし 
張家口鉄路局を訪問したとき、ずばり質問してみました。
「このあたり、ソ連軍兵士の姿が見えないようだが、実状はどうか?」
「たしかに、ソ連軍はちかくまで来ました。しかし、ここは中国ですから、中国人自身でまもります。そういって、引きとってもらいました。」
わたしは「なるほど。八路軍にもいいところがあるな」と見直す気持ちになりました。日本軍撤退からわずか2か月、八路軍は鉄道人はじめ住民の支持を固めている様子でした。


日本人民解放連盟
八路軍地区の日本人は、「日本人民解放連盟」という団体に組織されていました。もと日本軍人で捕虜になった人のほか、もと警察官・鉄道員・会社員など、いろんな人がいました。
わたしの場合は、「気がついたら、いつのまにか日本人民解放連盟の一員とされていた」というのが実感です。

「強制労働」はありませんでした。そのかわりというか、毎日のように「学習会」がひらかれました。こちらも、「祖国再建の道をさぐるためには、なんでも勉強してみよう」と、積極的に参加しました。テキストは、たしか「中国共産党小史」というような名前でした。社会主義・共産主義など、名前だけは知っていても、まともに自分の問題として考えたことがなかったのですが、こんどは真剣に議論しました。そもそも「討論する」ということが、はじめての経験でした。


生活検討会
「日本解放連盟」全体でどれだけの人数だったかは知りません。わたしたちの集団は80人ほどだったかと思います。ある日、全員が集まって(建前は自由参加)、「生活検討会」が開かれました。集団のリーダーの「日ごろの指導ぶり」について、自由に質問したり、批判したり。まるでツルシアゲ大会の感じ。わたしには、生まれて初めての経験、想像もつかないことでした。


国共内戦、承徳へ移動命令
「国共内戦がはじまったので危険。承徳まで移動せよ」という命令が出ました。
1945年12月24日(?)から翌年2月にかけての移動(放浪?)がはじまりました。前掲地図にあるとおり、涿鹿~新保安~懐来~延慶~永寧~四海~瑠璃廟~湯河口~長哨営~虎什哈~灤平~張百湾~灤河~承徳のコースです。
冬の寒空での強行軍。ある日、山越えの道がつづき、疲労のため、百歩ほど歩いては一服する状態。途中で予定を変更、山中の部落で宿伯。食事はコーリャンのカユでした。
瑠璃廟あたりで、瑠璃河という小川をわたりました。「瑠璃」は、ガラスのこと。日本の川でいえば、「タマ川」と呼ぶ感じ。中国ではめずらしい清流でした。
承徳の手前、灤平で数日間滞在。強行軍でつかれた体を休め、粟餅で正月を祝いました。そのあと1月11日、ようやく承徳へ着いたとたんに、帰還命令が出ました。
「国共停戦。張家口へ帰れ!」



八路軍の評判(承徳)
灤河のほとりに毎朝市が立っていました。そこでは、いろんな情報が飛びかっていました。
「ソ連の兵隊が来て、山のてっぺんまで、草一本も残さずかっぱらっていった。」
「八路軍は、そのソ連軍とグルだ。」
「1週間以内に、国民党の軍隊が来るらしい。」
張家口ではあれだけ評判のよかった八路軍でしたが、承徳ではクソミソでした。


解放連盟の一行は涿鹿へむかって出発しましたが、わたしは「腹痛」で参加できず、4名(他に同調者2名)だけ残留することになりました。


それから1週間、毎朝市場へ出かけて、情報を集めました。しかし、いっこうに国民党軍が到着する気配がありません。ウワサは、結局ウワサにすぎませんでした。
「腹痛」も収まり、4人で本隊のあとを追うことにしました。

2011年2月8日火曜日

華北交通のころ③

張家口脱出前後


張家口市内略地図


「工藤○平著『張家口訪問記』より」となっていますが、詳細不明のまま、引用させていただきました。張家口駅・鉄路局・鉄路医院などの所在が分かります。青年隊舎があった賜児山へ通じる道も示されています。


天津市周辺地図


「中華人民共和国分省地図集」(地図出版社)からコピーしました。渤海湾にのぞむ塘沽港(天津新港)に旧陸軍貨物倉庫があり、多数の在留邦人たちが収容されて、引揚船の到着を待っていました。

敗戦前夜の張家口 
1945年8月、毎日のラジオ放送も戦況の不利をつたえ、楽天的だった青年隊舎のふんいきが、くらく、ひえきってきました。このままではいけないと考えたわたしが、あることを提案し実行しました。8月14日夜のことです。

「青年隊舎の中で日本人同士話しあっているだけでは、いまおれたちがどんな状況におかれているのか、わかるはずがない。こんな時こそ中国人街へでかけて、店の人たちと世間話をしてみることだ。それがいちばんの情報収集になる」

そういって、わたしは黒っぽいダークワル[大掛児](ワンピースの中国服)に着かえ、数人の仲間たちといっしょに青年隊舎を出ました。ひさしぶりの夜の外出でした。


顔見知りのジャングイ[掌櫃](支配人)のいる店にゆきました。特殊喫茶というか、女性もいて、お茶やお酒を飲みながら時間をすごせる場所です。この日は、いつもより客がすくない感じでした。「世情不安のおりだからな」と妙にナットクしたことをおぼえています。

いつものとおり女性たちが出てきてお酒をついでくれますが、いまひとつもりあがりません。なんとなく居心地がよくないのです。時計を見て、このへんでと、会計をお願いしました。すると、ジャングイが出てきて、いいました。

「きょうの分の代金はいただきません。どうぞ気をつけてお帰りください。よろしければ、あすの晩あたり、もういちどおいでになってみてください」

(この項、「ジグザグ人生」(「長安」31号)により作成)


玉音放送を聞く
8月15日。「玉音放送がある」というので、ラジオのまえで正座していました。音波の状態が悪く、しばらくは意味不明。放送が終わってからも、「大日本帝国敗戦」とは信じられない気持ちでした。

張家口から脱出

8月15日を境に、「天国から地獄へ」の変化がはじまりました。
8月17日。大同・包頭方面から引き揚げてきた日本人たちの輸送列車を張家口駅で見送りました。無蓋車に着の身着のまま、見るも無残な姿でした。
「こんなミジメな格好をして、日本人としてはずかしい」
そう感じました。この時はまだ、「あすはわが身の姿」とは気づいていませんでした。

8月20日。華北交通従業員家族にも撤退命令が出ました。わたしが動員されて不在なので、信子はひとりで荷物をまとめ、駅まで運びました。しかし、衣類などの荷物は駅においたきり、手荷物だけ持って、列車に乗りこむのが精いっぱいだったといいます。無蓋車にシートをかけただけの車両です。

8月21日。ついに華北交通従業員全員に撤退命令が出ました。これが張家口脱出最後の列車となりました。北京まで平常5時間ほどの距離ですが、途中の線路が八路軍の手で破壊されていたため、4~5日かかって、ようやく天津に到着しました。


張家口脱出の真相
このシリーズのはじめに申しあげたとおり、わたしは最近になってようやく梅棹忠夫さんの「行為と妄想」(中公文庫)を読み、「張家口大脱出」の真相について「学習」しました。

わたしたちは「張家口大脱出」の当事者だったことにまちがいありませんが、当時は「大本営発表」だけが情報源で、「関東軍の実態」や「根本博駐蒙軍司令官の決断」など、なにひとつ知らされていませんでした。

「知らぬが仏」、「井の中の蛙」などというコトワザがあります。敗戦前夜にのこのこ「民情視察」に出かけたのも、戦後60年すぎてようやく「張家口大脱出の真相」にたどりついたのも、「大本営発表」を信じることにならされて、「仏」や「蛙」状態になっていたのだと反省しています。

ソ連軍の侵攻で地獄を見た「満州」居留民の場合は、規模もちがい、軍司令官の決断も対照的ですが、居留民が「知らぬが仏」、「井の中の蛙」状態だった点は共通です。

軍司令官の指導原理は「民ハ依ラシムバシ。知ラシムベカラズ。」戦闘行為の最中に討論集会を開いているヒマはありませんから、当然そうなります。ただし、それはあくまで非常事態での話です。


いまかりに、日本政府の指導者が「情報を公開すると、国益をそこなう」などと発言したら、それを聞いた国民はどう反応するでしょうか。「政府当局は国民を信頼していないようだ。だったら、こっちも、そんな政府を信頼する気になれないよ」ということにならないでしょうか。「信ナクバ立タズ」というコトワザもあります。

貨物倉庫で日本再建論議

1945年9月、天津(塘沽)の陸軍貨物倉庫に収容されました。張家口脱出で行き別れになっていた信子も、しばらく北京にいたあと、天津に来て合流。ここで日本への引揚船を待つことになりました。しかし、引揚船の順番がなかなか回ってきません。

貨物倉庫には、米やカンヅメなどの食料品がたくさん用意されていました。お酒も、なんとか手に入りました。仕事もなく、時間をもてあました若者たちがグループをつくり、酒を飲みながら、「日本国再建」の論議をはじめました。


「大本営発表がウソッパチだったはずがない」、「かりに日本本土で敗北したとしても、大陸のわが関東軍は健在のはずだ」、「関東軍を中心に、雌伏十年、捲土重来を図ればよい」など、いさましい議論も出ました。いま思えば、やはり「知らぬが仏」と「井の中の蛙」たちが集まって、「群盲像をなでる」状態でした。

それでも日本の将来について、おぼろげながら見当がついていることがありました。それは「これからの世界は、アメリカ流の道とソ連・中共流の道と、どちらかに分かれるだろう」ということです。

日本再建のために、どっちの道がよいか?いまは資料不足で、判断がつかない。さしあたりは、各自の判断で行動するほかない。①一日も早く帰国して、アメリカ流を研究する。②しばらく中国にとどまり、中共・ソ連流を研究する。③しばらく国民党に協力して時期を待つ、など。やがて日本に帰ってから、おたがいの体験を持ちより、比較してみれば、おのずから将来の展望が開けてくるのではないか?

みんな おおまじめで議論していました。そしてやがて、それぞれの道をあゆみはじめました。

2011年2月1日火曜日

華北交通のころ②

結婚しました



ポンピラにて



万寿山にて



青年隊舎の仲間たち




隊舎前にて、菅原医師



張家口鉄路学院

入社早々から、じぶんが担当する分野は「中国人鉄道員の養成」と、かってに決めていました。会社が関係する学校には、扶輪小学校、(各地鉄路局)鉄路学院、中央鉄路学院などがありました。駅員や車掌などの実習がすんだら、扶輪小学校か鉄路学院でも実習したいと申請しておきました。


1943年4月(?) 張家口鉄路学院教諭を拝命。ここで、日本人従業員に中国語、中国人従業員に日本語を教えました。念願の職場で、楽しい1年間でした。ただ、いざ「人にものを教える身」になって、いまさらながら自分の勉強不足を思い知らされました。


鉄路学院でわたしが目ざしたのは、「日中合作で鉄道事業を進める中堅幹部の養成」であり、その一環として「日中の相互理解・意志疎通をはかるための日本語・中国語学習指導」でした。それには、鉄路学院にふさわしいカリキュラムやテキストの研究も必要です。そして、なによりまず必要なことは、教師が生徒たちの学習意欲を引きだすツボを心得ていることでしょう。それには、生徒たちが日常の仕事や生活についてどんな問題意識を持っているか、それが分からなければ話がはじまりません。そんなわけで、わたしは鉄道現業、とりわけ構内運転部門での再実習を志願しました。


宣化駅構内助役

1944年4月(?)宣化駅構内助役を拝命。宣化駅の主な作業は、龐家堡pangjiabu鉱山で採掘された鉄鉱石を積みだすことでした。


宣化駅では、なによりまず、一人前の鉄道員になることをめざして働きました。徹夜明けには、仲間といっしょに ちかくの川でドジョウやエビをすくい、テンプラにしてたべました。酒のサカナに最高でした。


この地域は、「宣化のブドウ」の産地としても有名でした。

行政区画として、当時は宣化県でした。戦後は一時宣化市となり、1983年以降は張家口市宣化区となっているそうです。


ちなみに「龐家堡」という地名の読み方ですが、日本人はみな「リュウカホ」と呼んでいました。辞典には、「龐=广+音符龍の会意兼形声文字。厖大のボウ[厖]と同字」と解説されていますが、読み方は、辞典によって「ホウ、ボウ、リュウ」とするものと、「ホウ、ボウ」とするものと両方あります。

このことは、おなじ字形[風]を音符としながら、フウ風fengとラン嵐lanに分かれている例を連想させます(音韻の問題については、別の機会にあらためてとりあげる予定)。


張家口鉄路局文書科

1944年10月(?)、張家口鉄路局文書科勤務を命じられました。山口県出身の藤田兄といっしょでした。文書科には浄書室があり、おおぜいのわかい女性たちが和文タイプを打って、文書を作成していました。敗戦後、藤田兄は帰郷して間もなく病気で亡くなりましたが、女性たちは帰国後もカルガン会のメンバーとして健在でした。


一時帰国、結婚

1945年2月、加藤信子と結婚するため、一時帰国することになりました。

両親はずっと北海道に住んでいましたが、故郷への愛着心は格別で、「息子の嫁はぜひ富山から」と考えていたようです。父の意向が富山市在住の中山テイ叔母さんに伝えられ、その中山叔母さんが信子の叔母(水岡)さんと近所同士だったことから、二人の縁談が進められたそうです。


帰国の途中、たしか門司港か下関港かで、ぱったり水上勇太郎先生にお会いしました。その時のことは、ブログ「旭川中学のころ」(2010. 12. 7)の項に記しました。

   

2月25日、ちょうどわたしの誕生日。信子の実家(富山市砂町)、加藤家の一室で結婚式をあげました。「見合い結婚」ということばがありますが、二人は「見合い」なし、「交際期間」なし。写真を見ただけで、初対面の場が結婚式の場でした。


両親に結婚の報告をするため北海道へ向かう途中、松島湾で弟の長義と面会しました。応召中の彼は、飛行兵から船舶兵に転科。「毎日逆上陸の演習ばかり」といっていました(ブログ11/16, 11/30の項参照)。


そのあと北海道にわたり、両親と姉に報告しました。冒頭にかかげた写真「ポンピラにて、1945」がその時のものですが、今の地図でさがしてもポンピラという地名は見当たりません。おそらく父の最後の任地で、登記所があったところかと思います。


ツアル[賜児]山青年隊舎

3月はじめ、妻を同伴して帰任。ひきつづき張家口鉄路局賜児山青年隊舎に住むことになりました。ここは独身、単身の男子ばかりの宿舎ですが、会社から信子に「寮母」の辞令が出ました。


青年隊舎には、2交替・3交替勤務の青年たちもいて、昼といわず夜といわず、おおぜいの仲間が「寮母室」に集まってきました。用件は衣服の補修とか、ちょっとした調理とか、徹夜明けの時間つぶしとか、さまざま。飲み食いしたり、議論したり、さながら「梁山泊」の状態でした。


常連の中に、張家口鉄路医院内科医師として着任したばかりの菅原恒有さんがいました。彼は北大医学部の出身。1945年度の定期採用で、1944年10月北京で入社式。約50日間の研修を終えて、12月5日付で張家口鉄路医院内科勤務に発令。新年早々に青年隊舎へ引っ越してきました。青年隊舎幹事(網野・菅原・イズミ)の一員として、青年隊舎の居住環境を調べ上げ、改善策を提案するなど、「予防医学」について熱く語っていました。

戦後帰国してから、岩手県庁に入り、厚生部長を務めるなどして活躍されました。

菅原医師については、このあと「長安会」(華北交通OB会)の項でも紹介する予定です。