2011年1月25日火曜日

華北交通のころ①

現場実習の2年間

華北交通株式会社本社 


華北交通株式会社は、南満州鉄道グループの国策会社。日中戦争で占領した中国華北地方の鉄道・バスを管理するため、1938年に設立。7年後の1945年、日本敗戦のため消滅。本社、北京市東長安街17号(この項、ウィキペデイアによる)。


社章・社歌

社章は中国大陸を驀進する列車をイメージしたデザインです。見方によっては、片翼だけで飛ぶ姿。バランスをくずして脱線転覆しないか、心配にもなります。

社歌では、「鉄道建設でアジアを復興する」というユメが語られています。ただし、ユメはあくまでユメ。ユメと現実は、なかなか一致しません。日本人が「皇天の啓示」「善隣の義」などと考えていたことが、中国人の目には「日本人の勝手な思いこみ」「よけいなお世話」「内政干渉」「帝国主義の侵略」と見えたかもしれません。21世紀の現代でも、「民族同士の和解・提携」は世界人類共通のユメであり、しかも最も困難な課題とされています。

社歌とは別に青年隊歌というのがあり、その中にこんな文句がありました。

ヒマラヤの嶺高からず タリムの盆地遠からず

若き先駆の力もて やがてゆくべしカスピ海

我等鉄道青年の  きけ遠大の建設譜

すこし軍歌調ですが、青年たちにとっては、このほうが社歌よりも親しみやすかったようです。みんなたしかに壮大なユメをもっていました。

万寿山にて、1941


北京西北郊外の「頤和園」にある山。「八達嶺」、「明十三陵」と並んで、外国人にも喜ばれる観光名所です。


小沢公館にて、1941


2年前中国旅行の件でお世話になったことのお礼と、華北交通入社のご報告のため、北京市三条胡同の小沢開策さん宅を訪問しました。(ブログ「東京外語のころ(中)」参照)

内原と鉄嶺で事前講習

1941年3月、東京外語を卒業して、華北交通(株)に就職しました。会社は、幹部候補の新入社員にたいして2年間の現場実習を課していました。

まず、新入社員全員(文系・理系とも)が内原訓練所で講習をうけました。会社の宇佐美莞爾総裁が満蒙開拓義勇軍内原訓練所の加藤完治所長に訓練を依頼したとのこと。宿舎は、日の丸兵舎。訓練のメダマは、天地返しの耕法でした。

当時新入社員のあいだでは、こんなザレ歌がはやっていました。

  カンジ[莞爾]とカンジ[完治]の かみあわせ

  迷惑するのは 新社員

内原訓練所のつぎ、こんどは「満州国」にわたり、満蒙開拓青少年義勇軍鉄嶺大訓練所で訓練をうけました。農場で移動の途中、ノロ(鹿の一種)の姿を見かけました。また、季節はずれのヒョウ[雹]にもみまわれました。10円玉ほどの大粒で、ヘルメットに当たってコツン、コツン音を立てていました。

大訓練所のあと、鉄道沿線の開拓村に分散して、数日間実習。未成年の若者たちが戦闘訓練と農耕作業を並行させている姿を見せてもらいました。

ついでにソ満国境の町黒河まで足をのばし、松花江をへだててソ連領をながめました。おなじく国境の町ハルピンも訪問しました。思ったよりハイカラで、国際交流の都市だという印象をうけました。そのあと、一気に北京へ向かいました。

天津站と天津列車段

北京本社で各種行事などが終わった後、ひとりひとり分散して、各地方鉄路局の現場に配属されました。いよいよ現場実習2年間のはじまりです。

わたしは天津鉄路局の天津站(駅)に配属。まずは站務員として、改札・構内運転・貨物などの業務を実習しました。

つづいて、天津列車段(車掌区)で車掌の実習。車掌見習いが終わって、1941年12月7日、はじめて単独で貨物列車最後尾の車掌車に乗りこみ、天津から山海関まで乗務。8日朝、帰りの乗務のため駅へ向かう途中、「日本軍、真珠湾を攻撃」の号外を目にしました。

唐山站構内助役 

1942年4月(?)、唐山站構内助役を拝命。宿舎は、機関車給水タンクのそば。ガタンガタン・シュシュ・シューツ。うるさくて、睡眠どころではありません。どうなることかと心配でした。それでも、1~2ヶ月後にはスヤスヤ眠れるようになりました。

構内助役は、駅長代理として列車の構内進入を受けいれ、旅客の乗降や荷物の積み下ろしを確認し、さらに進路の安全を確認したうえで列車を発進させます。ひとりでできる仕事ではありません。おおぜいの駅員たちの協力、つまりチームワークが必要になります。

同僚に程さんという構内助役がいました。中国人従業員たちはみんな「程站長」と呼んでいました。中国語では、駅長はzhanzhang站長、助役はfu- zhanzhang 副站長となりますが、現場では「副」をはずして「程站長」のように呼んでいました。fu-をつけると発音しにくく、違和感があるため。また、助役がする仕事はそのまま駅長がした仕事として通用し、差別がないからです。

わたしはまだ新米の鉄道員でしたが、さいわいすこし中国語ができたおかげで、程さんや構内係りの中国人たちから「本音の話」を聞かせてもらうことができました。

唐山站では、鉄道業務の面だけでなく私生活の面でも、中国人労働者たちはみんな程さんに相談しているようでした。労働者たちには、それぞれの家庭があり、家庭生活の安全が保障されないと、職場でも安心して業務に集中できなかったからでしょう。

一事が万事。一つの駅が1年間無事故運転をめざす場合でも、華北交通が大陸鉄道建設の一翼を担うことをめざす場合でも、成功に必要な条件の第一は「リ―ダーと仲間たちが一心同体になること」です。これは、程站長の仕事ぶりから得た教訓です。

大同站貨物助役

1942年10月(?)大同站貨物助役を拝命。大同炭鉱で採掘された石炭の車両を列車に仕立てて送り出す作業が主な仕事でした。

宿舎に帰ってくると、おとなりさんの部屋から、いつも「たれか故郷を思わざる」のメロデーが流れていました。

 

日本国かならず滅びん

そのころ、本社企画の懸賞論文に応募したことがあります。わたしが提出した論文は、たしか「大陸鉄道建設のゆめ」というタイトルで、「大陸鉄道の建設には、現地従業員の全面的な協力が必要。それには、日本人中心の人事制度をあらため、現地人の給与を改善するなどの遠謀深慮が前提条件だ」と指摘しました。このような考え方は、下地としては華北交通入社以前から持っていたのですが、論文提出を思いたった直接の動機は、唐山駅で「程助役さんとその仲間たち」の仕事ぶりを見せてもらったことです。

論文のコピーをもっていないので、その内容を正確に再現することはできません。ただ、最後の部分をつぎのような文句で締めくくったことを覚えています。

「これしきの遠謀なくしては、大陸鉄道建設のゆめはかなわず、これしきの遠慮なくしては、日本国かならず滅びん」

書き終わった原稿を読みかえしてみて、われながら「かなり過激で時代がかった表現」だとは思いましたが、結局そのまま提出しました。

2011年1月18日火曜日

東京外語のころ(下)

岐阜、長良川鵜飼い(1991年)



富山、トロッコ電車(1992年)



富山、黒部峡谷(1992年)



三重、伊勢神宮(1993年)




京都(1994年)




同級生の進路


入学した年(1937)の7月7日に日中戦争がはじまり、卒業した年の12月8日に太平洋戦争がはじまる。そんな戦争の時代でした。入学当時は35名いた同級生が、召集などで、卒業時には25名ほどになっていました。

同級生の就職先は、陸軍・海軍・運輸・通信・商社などいろいろですが、すべて国家総動員体制に組みこまれていったわけです。


外語クラス会
戦後,ようやく世間が落ちつき、互いに連絡が取れるようになって、楠田兄を中心にクラス会の連絡網ができました。
1971年3月13日、卒業30年記念クラス会を開催。会場:市谷会館(新宿区本村町防衛庁共済組合)。準備委員:楠田・間篠・大沢。

その後、当番制で地方に出かけての一泊旅行会にまで発展(上掲のスナップ写真を参照)。しかし、やがて高齢化のため、東京中心の食事会に。そして、自然解散。


同級生の消息
わたしは地方に住んでいるので、クラス会で顔を合わせるのと、年賀状を交換すること以外は、ほとんど情報源がありません。それでも、わかっている消息をまとめてみます

合場信次 日清製粉(株)取締役。商社マンとして全国各地で勤務。取引先を接待する仕事が多く、小唄・小ばなしなど宴席を盛り上げる芸を習得したそうです。また、日清製粉という会社の関係から、皇室の裏話なども聞かせてもらいました。1985年クラス会幹事。
2007年12月23日死去。
大澤未知之助 元雄山閣編集長。1990年クラス会(柴又帝釈天)の当番幹事。
富山県出身異色の評論家玉川信明さんとは共通の知人。わたしが「コトダマの世界」出版について相談したとき、あちこち出版社に紹介したりしてくれました。
太田誠 同盟通信社海外特派員として活躍。数年来身体不調で静養中のところ、1989年6月24日死去。
木村稠 戦後、税務署に勤務。退職後、税務事務所を開設。1993年クラス会(鳥羽・伊勢)当番幹事。
楠田太郎 4歳ほど年上。在学当時から老成した感じでした。外語卒業後は陸軍に勤務。戦後、自衛隊に勤務。1960年の年賀状には「この度東部方面資料隊長を命ぜられ…」

戦後、クラス会組織の中心。仲間から「オンタイ[御大]」と呼ばれていました。

本人は鹿児島県出身。誰が見ても「薩摩男児」。ただし、人によっては「村夫子」とか「いなかの村長さん」と呼ぶことも。対して、奥さんは福岡県出身の博多美人。このミスマッチが、じつはみごとなハーモニーをつくりだしていました。
戦後しばらく、共産党が支配する大陸中国と国民党が支配する台湾中国とがはげしく対立し、その対立抗争が日本国内にまでもちこまれていました。中国語の学界でも、「台湾を訪問したものは、中国大陸へ行けない」、「中華人民共和国を訪問したら、台湾へ行けない」といわれていました。そんな流れで、楠田兄は毎年のように台湾を訪問しながら、中国本土を訪問せず、イズミは十数回中国旅行をつづけながら、台湾へはいっぺんも行ったことがないというのが現実です。
2002年1月、86歳にて永眠。

篠原弘脩 1989年クラス会(信州)の当番幹事。俳句が趣味。
柴垣芳太郎 在学当時、教室の仲間と相談し、学校側の了承を得て、教室内に「文庫」を設置(「中国文庫の設置」TONGXUE第3号、同学社、1992春を参照)。
バスケットボール部に所属。
卒業後、海軍に勤務。たまたま阿川弘之さんといっしょで、毎日暗号解読が仕事だったとのこと。戦後、南山大学を経て、竜谷大学教授。また北陸大学教授。晩年は、とくに老舎の研究に全力を尽くしておられたようです。1991年クラス会(長良川鵜飼い)の当番幹事。
 <柴垣兄からいただいた作品>

「毛沢東語録の語彙」龍谷大学論集第386号抜き刷り、1968年。
「中英日対照世界の自然科学者名」 龍谷大学論集第414号抜き刷り、1979年。
「『老舎の年譜』改訂試稿(上)」 龍谷紀要第4巻第2号抜き刷り、1982年。
「老舎の家族」 同上第5巻第2号抜き刷り、1983年。
「老舎著作年表」 同上第9巻第2号抜き刷り、1987年。
「老舎著作解題(その1)」 北陸大学紀要第15号抜き刷り、1991年。
千田金造 在学途中に応召。兼松商事(株)に勤務。1990年10月17日死去。
中村四五六 運送会社を経営。「豪放磊落」を絵にかいたような人物でした。
1977年死去。

橋内武道 まじめで、几帳面な優等生。外語在学の4年間、ずっと中学生時代のランドセルを使っていました。卒業後、陸軍憲兵学校の教官。戦後は、読売新聞社外報部勤務を経て、明星大学教授、また亜細亜大学教授。1995年クラス会(東京)当番幹事。
<橋内兄からいただいた作品>
「趙元任博士:わたしの言語的自伝」(仮訳) 1976年。手書き原稿コピー。
「中国の知識人と日本」 部報めいせい2月号抜き刷り、1984年。
「『源氏物語』の中国語訳と林文月教授」明星大学研究紀要、人文学部第20号抜き刷り。1984年。
「橋内武道教退職記念誌」 明星大学中国語研究室、1991年。

久松満秀 教室では、わたしの前の座席でした。山形県出身。戦後、郷里の自治体に勤務。


間篠源太郎 1980年クラス会(市川)の当番幹事。2007年2月永眠。
村上和雄 商社勤務。1980年クラス会(市川)の当番幹事。2007年2月永眠。

以下、イズミ当てハガキから。

「愚公会(中国語研究サークル)に参加して3年半あまり…」(1,975)


「去年、北京で3泊。軍の幹部が私用に車を駆って百貨公司へ女房づれで行っているのを見かけて、何ジャイナと思いました」(1980)
「日本と中国との世界観の断絶の認識が不徹底なままで、日中友好というスローガンを叫ぶことには、以前から危惧の念を抱いていました」(1981)