現場実習の2年間
華北交通株式会社本社
華北交通株式会社は、南満州鉄道グループの国策会社。日中戦争で占領した中国華北地方の鉄道・バスを管理するため、1938年に設立。7年後の1945年、日本敗戦のため消滅。本社、北京市東長安街17号(この項、ウィキペデイアによる)。
社章・社歌
社章は中国大陸を驀進する列車をイメージしたデザインです。見方によっては、片翼だけで飛ぶ姿。バランスをくずして脱線転覆しないか、心配にもなります。
社歌では、「鉄道建設でアジアを復興する」というユメが語られています。ただし、ユメはあくまでユメ。ユメと現実は、なかなか一致しません。日本人が「皇天の啓示」「善隣の義」などと考えていたことが、中国人の目には「日本人の勝手な思いこみ」「よけいなお世話」「内政干渉」「帝国主義の侵略」と見えたかもしれません。21世紀の現代でも、「民族同士の和解・提携」は世界人類共通のユメであり、しかも最も困難な課題とされています。
社歌とは別に青年隊歌というのがあり、その中にこんな文句がありました。
ヒマラヤの嶺高からず タリムの盆地遠からず
若き先駆の力もて やがてゆくべしカスピ海
我等鉄道青年の きけ遠大の建設譜
すこし軍歌調ですが、青年たちにとっては、このほうが社歌よりも親しみやすかったようです。みんなたしかに壮大なユメをもっていました。
万寿山にて、1941
北京西北郊外の「頤和園」にある山。「八達嶺」、「明十三陵」と並んで、外国人にも喜ばれる観光名所です。
小沢公館にて、1941
2年前中国旅行の件でお世話になったことのお礼と、華北交通入社のご報告のため、北京市三条胡同の小沢開策さん宅を訪問しました。(ブログ「東京外語のころ(中)」参照)
内原と鉄嶺で事前講習
1941年3月、東京外語を卒業して、華北交通(株)に就職しました。会社は、幹部候補の新入社員にたいして2年間の現場実習を課していました。
まず、新入社員全員(文系・理系とも)が内原訓練所で講習をうけました。会社の宇佐美莞爾総裁が満蒙開拓義勇軍内原訓練所の加藤完治所長に訓練を依頼したとのこと。宿舎は、日の丸兵舎。訓練のメダマは、天地返しの耕法でした。
当時新入社員のあいだでは、こんなザレ歌がはやっていました。
カンジ[莞爾]とカンジ[完治]の かみあわせ
迷惑するのは 新社員
内原訓練所のつぎ、こんどは「満州国」にわたり、満蒙開拓青少年義勇軍鉄嶺大訓練所で訓練をうけました。農場で移動の途中、ノロ(鹿の一種)の姿を見かけました。また、季節はずれのヒョウ[雹]にもみまわれました。10円玉ほどの大粒で、ヘルメットに当たってコツン、コツン音を立てていました。
大訓練所のあと、鉄道沿線の開拓村に分散して、数日間実習。未成年の若者たちが戦闘訓練と農耕作業を並行させている姿を見せてもらいました。
ついでにソ満国境の町黒河まで足をのばし、松花江をへだててソ連領をながめました。おなじく国境の町ハルピンも訪問しました。思ったよりハイカラで、国際交流の都市だという印象をうけました。そのあと、一気に北京へ向かいました。
天津站と天津列車段
北京本社で各種行事などが終わった後、ひとりひとり分散して、各地方鉄路局の現場に配属されました。いよいよ現場実習2年間のはじまりです。
わたしは天津鉄路局の天津站(駅)に配属。まずは站務員として、改札・構内運転・貨物などの業務を実習しました。
つづいて、天津列車段(車掌区)で車掌の実習。車掌見習いが終わって、1941年12月7日、はじめて単独で貨物列車最後尾の車掌車に乗りこみ、天津から山海関まで乗務。8日朝、帰りの乗務のため駅へ向かう途中、「日本軍、真珠湾を攻撃」の号外を目にしました。
唐山站構内助役
1942年4月(?)、唐山站構内助役を拝命。宿舎は、機関車給水タンクのそば。ガタンガタン・シュシュ・シューツ。うるさくて、睡眠どころではありません。どうなることかと心配でした。それでも、1~2ヶ月後にはスヤスヤ眠れるようになりました。
構内助役は、駅長代理として列車の構内進入を受けいれ、旅客の乗降や荷物の積み下ろしを確認し、さらに進路の安全を確認したうえで列車を発進させます。ひとりでできる仕事ではありません。おおぜいの駅員たちの協力、つまりチームワークが必要になります。
同僚に程さんという構内助役がいました。中国人従業員たちはみんな「程站長」と呼んでいました。中国語では、駅長はzhanzhang站長、助役はfu- zhanzhang 副站長となりますが、現場では「副」をはずして「程站長」のように呼んでいました。fu-をつけると発音しにくく、違和感があるため。また、助役がする仕事はそのまま駅長がした仕事として通用し、差別がないからです。
わたしはまだ新米の鉄道員でしたが、さいわいすこし中国語ができたおかげで、程さんや構内係りの中国人たちから「本音の話」を聞かせてもらうことができました。
唐山站では、鉄道業務の面だけでなく私生活の面でも、中国人労働者たちはみんな程さんに相談しているようでした。労働者たちには、それぞれの家庭があり、家庭生活の安全が保障されないと、職場でも安心して業務に集中できなかったからでしょう。
一事が万事。一つの駅が1年間無事故運転をめざす場合でも、華北交通が大陸鉄道建設の一翼を担うことをめざす場合でも、成功に必要な条件の第一は「リ―ダーと仲間たちが一心同体になること」です。これは、程站長の仕事ぶりから得た教訓です。
大同站貨物助役
1942年10月(?)大同站貨物助役を拝命。大同炭鉱で採掘された石炭の車両を列車に仕立てて送り出す作業が主な仕事でした。
宿舎に帰ってくると、おとなりさんの部屋から、いつも「たれか故郷を思わざる」のメロデーが流れていました。
日本国かならず滅びん
そのころ、本社企画の懸賞論文に応募したことがあります。わたしが提出した論文は、たしか「大陸鉄道建設のゆめ」というタイトルで、「大陸鉄道の建設には、現地従業員の全面的な協力が必要。それには、日本人中心の人事制度をあらため、現地人の給与を改善するなどの遠謀深慮が前提条件だ」と指摘しました。このような考え方は、下地としては華北交通入社以前から持っていたのですが、論文提出を思いたった直接の動機は、唐山駅で「程助役さんとその仲間たち」の仕事ぶりを見せてもらったことです。
論文のコピーをもっていないので、その内容を正確に再現することはできません。ただ、最後の部分をつぎのような文句で締めくくったことを覚えています。
「これしきの遠謀なくしては、大陸鉄道建設のゆめはかなわず、これしきの遠慮なくしては、日本国かならず滅びん」
書き終わった原稿を読みかえしてみて、われながら「かなり過激で時代がかった表現」だとは思いましたが、結局そのまま提出しました。