2010年12月21日火曜日

東京外語のころ(中)

「井上ポケット支那語辞典」巻末広告。A, b.
「井上ポケット支那語辞典」(文求堂、1939)の巻末広告。










「魯迅論文字改革」
a.表紙、b. もくじ。
魯迅が1934年に書いた文章8編(「門外文談」、「中国語文的新生」など)を
まとめ、「魯迅論文字改革」として、
1974年に文字改革出版社から発行したもの。







ペキン市街略地図 
もとは「北京城」と呼ばれ、
市街地全体が本格的な城壁でかこまれていたのですが、
戦後はその城がほとんど無くなるなど、すっかり変化しました。
「三条胡同」という名前はのこっているでしょうか?
「小沢公館」の「四合院」はどうなったでしょうか?





画像④「四合院」解説図 
「中日辞典」(小学館、1992)による。

部分の名称など、さらに詳しい解説を希望されるむきは、
「中国語図解辞典」(大修館、1993)をご参照ください。









思い出の教授たち
ひさしぶりに引っぱりだした「井上ポケット支那語辞典」(文求堂、1939)の巻末広告に、東京外語の先生たちの名前がならんでいるのを見つけました。そのとたんに、70年まえの恩師たちの姿がよみがえってきました。

支那語部の主任教授は宮越健太郎先生でした。先生は教育方針として、生徒に成績通知表をわたしませんでした。じぶんの成績をききにくる生徒がいると、「成績を心配するくらいなら、もっとしっかり勉強しろ!」としかりつけたそうです。

宮越先生が現代中国語講義のため、東大へ出張されるかわりに、東大から塩谷温教授が古典の講義にこられました。先生はいつも羽織袴姿で、悠然といすに着席。時に扇子を使いながら、朗々と「唐詩選」などを講義されました。そういえば、テキストなどもカバンではなく、たしか紫色のフロシキに包んでおられたように記憶しています。

当時いちばん張りきって精力的に授業を進めておられたのは、清水元助先生だったかと思います。教室で習ったのは北京官話(標準語)ですが、先生ご自身は広東語の研究もしておられたそうです

神谷衡平先生は、独特のイントネーションで文芸作品を朗読されました。
内之宮金城先生は、若くてハンサム。みんなから「希望の星」として期待されていましたが、まもなく軍に召集されました(イタリア語科の前田義則先輩と同期)。
諸岡三郎先生には、なんとなく「ダルマ大師」を連想させる風貌がありました。

包象寅先生からは、「急就編」をテキストに、きっちり正確に発音するよう教えられました。
とにもかくにも「まじめで几帳面」という印象でした。日本敗戦後どうしておられるか、気になっていましたが、先日たまたまネットで「1946年、東京中華学校長に就任」の記事を発見。ほっとしました。

英語の授業では、千葉勉先生の講義がユニークなものでした。
「この学校には、学問研究の気風がない。外国語の研究といっても、じつは外国人のモノマネをしているだけ。唯一自慢できるのは、わたしがやっている音声学研究室だけだ」。
毎回、ちょっと口をヘの字に曲げながら「東京外語批判」を展開されました。先生はもともと英国風紳士でしたが、あたりを叱咤激励する姿には、織田信長や伊達政宗などの武将を連想させる一面もありました。
先生の唇の上に豆粒ほどのイボ(ホクロ?)ができていました。それで、生徒たちがつけたあだ名が「You xiansheng[疣先生]」。you[疣]は優秀の[優]と同音です。

カナモジカイに入会
入学してまもなく、兄の紹介でカナモジカイに入会しました。中国語を書くときは漢字ばかりで書きますが、いっぱんの教科の講義はカタカナでノートしました。ひらがなでもよいのですが、カタカナのほうが速記にちかい速さでノートできました。もちろんヨコガキで、英語などとおなじく単語ごとにワカチガキします。
クラスの仲間からは「中国語を学びながら、カタカナで文章を書く、変なヤツ」といわれました。

中国の文字改革運動
 漢字の本場中国でも、当時すでに「文字改革」の運動がはじまっていました。それには「注音字母」「国語ローマ字」「ラテン化新文字」など、いくつもの流れがあり、はげしく論争していましたが、一致する点もありました。
「中国の発展が日本よりおくれたのは、教育の普及がおくれたからだ」
「漢字は表意モジなので、モジ数がおおすぎて、習得するのがむつかしい」
「漢語はいくつかの方言にわかれ、同一の漢字が地域によって別々に発音されている。共通語普及のためにも、カナやローマ字のような表音モジを採用すべきだ」など。

「注音符号」(漢字系統の表音記号)は、東京外語の授業にも採用されていました。また、神田神保町の内山書店には、「文字改革」関係の単行本や雑誌がつぎつぎ入荷していました。魯迅の「門外文談」や「中国語文の新生」なども並んでいました。

日本語の世界戦略とカナモジ
わたしが入会した当時、カナモジカイの会員や支援者の中には、いろんなタイプの人がいました。まず、理事長のマツザカ タダノリ[松坂忠則]さんは情熱の人。カナモジ運動の闘士・論客であり、また作家の山本有三さんとも親しくしておられました。

理事の中には、予備役の軍人さんもいました。陸軍工兵大佐のコウノ タツミ[河野巽]さんと海軍大佐のワカバヤシ[若林]さんなど。当時コウノさんは召集がかかっていたとのことで、軍服姿のこともありました。「現役時代、部下に対して、ビンタを張るなどの暴力行為をゆるさなかった」という評判でした。ワカバヤシ[若林]さんは、背広のにあう英国風紳士で、三菱電機の役員。ワカバ ヤシ[若葉椰子]というペンネームをつかっていました。

当時わたしは、兄とともに東中野駅ちかくに下宿。毎日中央線水道橋駅まで往復していました。ある日の朝、電車の中で軍服姿のコウノさんから声をかけられました。
「イズミ君でしたね」
コウノさんは、「日本語を海外にひろめる」戦略を立て、そのためのスタッフとして、中国語専攻のわたしに目をつけたようです。

コウノさんのお宅は、わたしの下宿から駅までゆく途中にありました。ガラス張りのサンルームがある「お屋敷」でした。コウノさんの娘さんがU大将の息子さんと結婚されたことから、やがて留守番がわりにコウノさんが住むことになったと、ウワサに聞きました。

週末になるとコウノさんをたずね、サンルームでお茶をいただいたり、新宿まででかけて昼飯をごちそうになったりしました。話題はいつも「日本語を世界にひろめる第一歩として、カナモジのテキストをつくること」でした。

夏休みを利用して中国旅行
東京外語にはいった年、夏休みの初日(1937.7.7)に、盧溝橋事件発生のニュースが流れました。日中戦争がはじまり、一般旅行者の中国渡航が禁止になりました。

それまで東京外語では、3年生の夏休みを利用して「中国旅行に出かける」慣行(?)がありました。入学当初から、先輩たちの体験話を聞かされ、「わたしもゼヒ…」と考えていました。もちろん、「旅費をどう工面するか」なども問題ですが、こんどは「どうしたら渡航禁止令をクリアできるか」が先決問題になりました。

苦肉の策として、東京にあった新民会事務所をたずね、相談しました。新民会というのは、 もともと協和会の流れです。「五族協和」をとなえる協和会が「満州国」政府をささえる組織だったように、新民会も華北地区で臨時政府をささえるために生まれた組織です。

さいわい、新民会事務所の青年Tさんのおかげで、「新民会の用件で渡航」というお墨付きをいただき、ようやく渡航許可が出ました。

大連~奉天~新京~北京
大連をふりだしに奉天(瀋陽)~新京(長春)~北京とまわりました。どこへいっても、だれか学校の先輩がおられるので、いろんな話を聞かせていただきました。

新京(長春)では建国大学の先輩から、ノモンハン事件(5月)の真相を聞かされました。それは「大本営発表」とは反対の「全面的な敗北」という深刻な現実でした。

北京では、東京事務所Tさんの紹介で、新民会顧問格の小沢開策さんをたずねました。お宅は、東城の三条胡同にある典型的な四合院で、「小沢公館」と呼ばれていました。(音楽家の小沢征爾さんが小沢開策さんの息子さんだったとは、つい最近になって知りました)。

さいごに、北京西郊の農村実験区で1週間すごしました。
気をよくして旅行しているうちに、しだいに大陸ボケしたというか、帰国したのは大幅に 9月へずれこんでからでした。兄に、きびしくしかられました。

2010年12月14日火曜日

東京外語のころ(上)

手さぐりで音韻学習

東京外語校章
 1899年制定。中央部の炬火と両側の翼を組み合わせたもので、炬火にLの文字が巻きつく。炬火は「世を照らす」意。Lはラテン語lingua(言語)の意。翼は、開設当時の8語学科を表わすとされています。


















「井上ポケット支那語辞典」とびら 
井上翠、1935年発行、1939年第25刷。発音表記にトーマス ウエード式ローマ字を採用。当時最新式の中国語辞典でした。

















同上辞典318ページ 
ご覧のとおり、たとえば、[岡]の発音(1音節)を表わすために「トーマス ウエード式ローマ字」、「ラテン化新文字」、「注音字母」、「カナモジ」計4通りの表記法が示されています。現行のローマ字つづり「漢語拼音方案」は、このあとさらに20年間議論をかさね、1959年にようやく制定されたものです。発音表記法を確定するまでにこれだけテマヒマかかったということは、その表記法にたよる中国語学習者にも、それなりの苦労が要求されたことになります。














東京外語へ入学
1937(昭和12)年4月、東京外国語学校(現東京外国語大学)支那語部文科に入学しました。
東京外語を志望した直接の動機は、身近にいた前田義徳(後にNHK会長に就任)先輩へのあこがれです。前田先輩は旭川地方裁判所で廷丁(廷吏)をしておられた方の息子さんで、旭川中学から東京外語イタリア語科へ進学、地元新聞社勤務のあと、朝日新聞社に入社、海外特派員として世界各地で活躍していました。

英仏独など、いろんな語学コースがある中で支那語(中国語)をえらんだのは、やはり時代の流れです。「満蒙は日本の生命線」というスローガンがさけばれ、「満州国」がつくられ、「満蒙開拓団」や「満蒙開拓青少年義勇軍」が送り出された時代でした。

支那語と中国語
いまはだれでも、どこでも「中国語」といいますが、当時はみんな「支那語」といってい ました。シナ[支那]というコトバは、ChinaやChineseとおなじく、正式な用語でした。「支 那学」という学問の分野もありました。ただし、シナ[支那]もChinaも、もともと外国人が つけた呼び名であり、中国人にとっては外国語・外来語ということになります。

では、中国人自身はどう呼んでいたか?[中国語]Zhongguoyu、[中国話] Zhongguohua、[華語]Huayu、[漢語]Hanyuなど、いろんな呼び方があり、それぞれちがったニュアンスをもっていました。どちらかといえば、日常会話では[中国話]といい、公式の場では[~語]といっていたようです。21世紀の現代でも、ほぼおなじ傾向ですが、ただ中国の中国語教科書などでは、[漢語]Hanyuに統一されているようです。

まずは、中国語の発音練習
日本語では、漢字で[日本]と書いて「ニッポン」もしくは「ニホン」とよみます。ただし、それは日本語の文脈の中での話です。中国人にむかって「ニッポン」「ニホン」といっても、[日本]という意味が通じません。「Riben」のように発音して、はじめて[日本]のことだとわかってもらえます。

さて、1年生の1学期は、朝から晩まで支那語(中国語)の発音練習をつづけました。道を歩いているときは、店のカンバンや電柱の広告などに書かれた漢字を、かたっぱしから中国語の発音でよむ練習をしました。

日本語と中国語とでは、音韻組織がまるでちがいます。中国人と会話したければ、「中国語を耳で聞いて、(翻訳せずに)すぐ中国語で返事できる」ように、じぶんの耳と口を訓練しなければなりません。それは、これまで日本語の音韻組織にあわせて訓練してきた耳と口を、こんどは中国語の音韻組織にあわせて訓練しなおす作業です。

漢字は、漢語(漢民族の言語)の音韻組織にあわせて作ったモジであり、基本的に漢字1字が漢語1音節に対応し、その1音節がそのまま1語になったり、造語要素になったりしています。ですから、一つ一つの漢字の発音練習が中国語の音韻感覚習得に役立つことはまちがいありません。

それにしても、目にはいる漢字をかたっぱしから中国音で発音してみるという作業は、たいへんなものです。まず、漢字の意味は見当がついても、中国語としての発音がわかりません。辞典をめくり、部首別や画数から発音をたしかめます。テマヒマかけておぼえたつもりでも、記憶として定着してくれません。1時間か1日後には忘れてしまいます。毎日、サイのカワラのくりかえしがつづきます。

効果的な学習法をさぐる
そこで、いろいろ考えてみました。
「なんとかして、もっと効率よく中国語音を習得できるような学習法はないか?」
「いくつかの単語をまとめておぼえられる方法はないか?」など。

まず第一の方法は、日本漢字音からぎゃくに中国語音を推定する方法です。たとえばアン[安・案・按]・カン[干・幹・肝]・タン[旦・担・胆]・リン[林・淋・琳・霖]などのように、日本漢字音の語尾がンと表記されるものは、「中国語音でも-n型」と推定するわけです。

「そんなの、アタリマエすぎる」といわれるかもしれませんが、これは だいじなポイントの一つです。というのは、中国語の音節語尾には-n型のほかに-ng型というものがあり、日本人の耳では、なかなか判別できないことがおおいからです。

たとえば、gan[干・幹・肝]とgang[岡・綱・鋼]、dan[旦・担・胆]とdang[当・党]、lin[林・淋・琳・霖]とling[令・鈴・嶺・齢]など。初心者の耳には、どれもみな語尾が「ン」音にきこえ、-n型と-ng型との区別がつきません。辞典でたしかめてみて、はじめて-n型と-ng型とに区分されていることがわかります。

中国音「-n型」は日本漢字音「ン型」に対応し、中国音「-ng型」は日本漢字音「~ウ型」または「~イ型」に対応しています。たとえばgang [岡・綱・鋼]の日本漢字音はカウ、dang[当・党]の日本漢字音はタウ、つまり「~ウ型」です。ding[丁・町・釘・頂・定・訂]の日本漢字音はテイ・チャウ、ling[令・鈴・嶺・齢]の日本漢字音はレイ・リャウ、つまり「~ウ型」とも「~イ型」とも解釈できます。

そこで、「語尾が-nか-ngかまぎらわしい漢語音」を判別するための実用的な対策として、つぎのような仮説(?)を設定してみます。
「日本漢字音がンで終わるものは、中国音語尾も-nと推定できる。語尾がイ・ウのものは、中国音語尾が-ngと推定できる」

音符をもつ漢字
第二の方法は、漢字の字形から発音を推定する方法です。漢字はもともと象形文字、つまり事物の姿をかたどるモジであり、直接発音を表わすことはありません。しかし、よく見ると、発音を表わすための符号、つまり音符をもつ漢字は、たくさんあります。1つの音符を5字も10字もの漢字が共有している例がありますから、「音符による漢字音習得法」はたしかに効果的な学習法といえます。

前記漢字の例で考えてみます。gan[干]は[干・幹・肝]の共通音符、dan[旦]は[旦・担・胆] の共通音符、ding[丁]は[丁・町・釘・頂・定・訂] の共通音符ということになります。また、dang[当・党]、ding[丁・町・釘・頂・定・訂]、gang[岡・綱・鋼]、lin[林・淋・琳・霖]、ling[令・鈴・嶺・齢]などについても同様です。

もちろん、中国語(漢語)学習の入門期ですから「~n型音節と~ng型音節の構成原理」とか、「漢語音変化の歴史と日本漢字音の対応関係」、「形声文字の実態」などについて、どれだけの予備知識があったわけでもありません。ただ「中国人のコトバを聞いてわかるようになりたい」「中国人に通じるコトバをおぼえたい」という一心で練習していただけです。

それだけのことですが、それがやがて「ヤマトコトバと漢語の音韻比較」「象形言語説」の発想法につながり、さらに「五十音図修正提案」「日漢英の音韻比較」「現代日本語音図試案」「日漢英共通64音図」までつながっていったことも事実です。

2010年12月7日火曜日

旭川中学のころ


渡部善次校長
1932(昭和7)年3月、旭川市立中央小学校を卒業。4月、庁立旭川中学校(現旭川東高校)へ入学。渡部善次校長・立花繁男教頭の時代でした。
渡部校長は、「じぶんの学力が十分でないと思ったら、むりに進級するよりも留年して基礎を固めするほうが有利だ」というのが持論でした。じっさいじぶんの息子さんにも留年させていました。

同期生のこと
同期に、野球のスタルヒン選手がいました。1年生のとき地区大会で優勝。甲子園初出場ということで、学校どころか町をあげてお祭りさわぎになりました。キャッチャーをつとめた西條敏夫兄は、「スタルヒンの投球を受けられたのはおれだけだ」と自慢していました。

同期生の中から2人も哲学者が出たのは意外でした。1人は武田弘道兄。中央小学校以来の遊び仲間で、わたしとおなじく小柄。チョロチョロ動きまわるので、「武田のチョロ」とよばれていました。生家が「武田医院」でしたから、おそらく彼もお医者さんになるだろうと思っていました。あとで「大阪市立大学哲学科教授」ときかされてビックリしました。

もう一人は斎藤忍随兄。東京大学文学部哲学科を卒業、北海道大学を経て東京大学文学部教授・同文学部長・名誉教授を歴任。ギリシア哲学の第一人者だそうです。生家が曹洞宗のお寺で、中学時代からなんとなく風格みたいなものがあり、みんなが一目置いていました。

栃木義正兄については、このブログのはじめ(11月9日)でもご紹介しましたが、小学生当時のわたしには「小学校の校長先生のお宅」という潜在意識があり、『栃木商店』へ買い物にゆくときは、いつもヒヤヒヤしていました。中学校でもおなじクラスになったことはなく、直接の交流はありませんでした。ただ、栃木兄が東京文理科大学に進学し、高校で地理の先生をしているという話は聞いていました。

ずっとあとのことですが、1991(昭和3)年『コトダマの世界…象形言語説の検証』(社会評論社)を発表したおり、1部贈呈したことがあります。その翌年、『北海道 集落地名地理』(567ページ)という大作を送っていただきました。わたしは「地理学」については門外漢ですが、「地名」には関心があります。この本の序文に『…「集落名称」を、その起源より分類したものであり、その分類の視点を地理的視点においた』とあるとおり、北海道におおいアイヌ語ゆかりの地名について、一つ一つ解説されています。送り状に「北海道を偲ぶ よすがにしてください」とありましたが、自称「エゾッコ[蝦夷子]」のわたしにとって、大切な宝物になっています。

東京にいる同期生たちが「旭三会(第30期)」というグループを組織し、定期的に親睦会を開いていました。中心になって世話をしていたのが花輪元治兄で、富山のわたしにも案内があり、数回出席しました。その席に斎藤大先生が顔を出していたこともあります。

校友会の機関紙に「カナモジ論について」投稿したことがあります。兄がカナモジカイの会員だったので、わたしも日本の国語・国字問題に関心を持ちはじめていました。

謹慎1週間
1936(昭和11)年、5年生1学期末のある日、わたしは作業科の作品提出をめぐって校則に違反したことから、「学級担任宅で1週間の謹慎」を命じられました。当日は学校から帰宅を許されず、そのまま構内の1室に収容。保護者の父が呼びだされました。帰りぎわ、面会をゆるされた父は、ただひとこと『カゼをひかないように』といっただけでした。

謹慎の場所は、たまたま学級担任の朝比奈進先生が病気静養中のため、副担任の水上勇太郎先生のお宅でということになりました。水上先生は3月に東京文理科大学を卒業、4月に赴任されたばかり。しかも、新婚そうそう。「新婚旅行をかねて、旭川へ来られた」とうわさされていました。

謹慎処分を受けてションボリしていたわたしは、水上先生と奥さまからとてもだいじにしていただきました。先生は、勉強づくえの高さを心配して調節したり、「毎日家の中で勉強ばかりしていては、健康によくないから」と、散歩に連れだしたりされました。

「校則違反」の内容については、A君との「共同正犯」であり、学校当局も「部外秘」としていたことなので、わたしがかってに公開することはできません。A君がどんな1週間を過ごしたかも、聞いていません。いずれにしても、水上先生ご夫妻にとっては「とんだオジャマ虫」だったかと思いますが、わたしにとっては「地獄で仏」、一生忘れられない、なつかしい思い出の1週間となりました。

事件について学校当局は、処分の内容はもちろん、事件の発生についても「部外極秘」の方針をつらぬいたようです。数十年後、友人からの年賀状にこんなメモがありました。
「あの時、君がたった一人でストライキをやったというウワサが流れた」

縁は異なもの
水上先生とは、そのごも意外な場所でお会いしました。
1回目は東京。先生は、わたしどもを卒業させた1935年3月、旭川中学校を退職、東京府立四中へ転勤しておられたのです。2回目は1941年ころ、北京日本中学校で。ここでも、校長は渡部善次先生でした。

                             
北京日本中学校のみなさん(「北京日本中学校校史」による)
(注)最前列中央左が渡部校長、右が水上先生.

そして3回目は1945年2月、門司港で偶然の出会いでした。わたしは結婚のため一時帰国、富山へ向かう途中。先生は「現地では危険が予想されるので、家族を内地へ引きあげさせ、単身で北京へ帰る途中」とのことでした。

「(専門に研究している)流体力学の分野から考えてみても、この戦争に勝ち目はない。じぶんが仕事に専念できるよう、家族を内地へ帰した」

それまでずっと先生を尊敬していたわたしですが、このコトバを聞いたとたん、先生の「愛国心」をうたがう気持ちになりました。「神州不滅」「連戦連勝」という「大本営発表」ばかり聞かされていたので、「世界情勢の中で、客観的に日本の現状を判断する」ことができなくなっていたのです。おはずかしい話です。

先生は数学とか流体力学が専攻とうかがっていましたが、コトバの問題についても関心を持っておられたようです。1991年9月、わたしが『コトダマの世界』を発表したとき、さっそくご感想をよせていただきました。

『…貴説は視覚特に「動」に着目した動詞→名詞の系統化であるように見受けられます。「静」に着目して名詞→動詞を考えたらどの様な結果がでるでしょうか。さて当節余りにも言葉の美しい響きが失われて行くようで気がかりです。特に「t」音が強い様で耳障りなのです。これは蛇足…』

先生ご指摘の「コトバの静と動」については、このあと「コトダマの世界」シリーズでとりあげてみたいと考えています。
先生は、2005(平成17)年5月11日「97歳にて永眠」されたとのこと。ご遺族の方からお知らせいただきました。

2010年11月30日火曜日

死亡者長義の来歴

…三男を亡くした父親のメモ…




<まえがき>
 先日父長蔵の遺品を整理していたところ、「死亡者・長義の来歴」というメモが見つかりました。28歳の若さで亡くなった3男長義(1923~1951)の1周忌をまえに、親として痛恨の思いをつづった追悼メモです。半紙をタテ長の二つ折りにして使用。5ページにわたる長文です。これだけの追悼文をもらった長義は、4人きょうだいの中で一番の幸せものかもしれません。
父はながく刑事裁判の予審部門で書記を勤め、事件の記録調書をつくるのが仕事でしたから、このメモも「記録調書スタイル」になっています。ほんとうは「原文のまま」ご紹介したいところですが、それではいまの若い方々に読んでいただけそうにありません。そこで思いきって、現代口語文スタイルに書きなおしてみました。1人でもおおくの方々に読んでいただければ、父も弟も喜んでくれると思います。タイトルは原文のままにして、サブタイトルを追加。1~7各項の見出しに、「生い立ち」などの文句を追加しました。

死亡者・長義の来歴

1. 生い立ち
大正12年11月13日午後、泉家第5代目長蔵の3男として、同年長蔵が新築した北海道旭川市8条通り16丁目左4号の自宅で呱々の声をあげました。生長するに従い、旭川市大成小学校に学び、6年の課程を終え、ついで同市所在の北海道庁立旭川中学校に入学、所定の5年の課程を卒業し、さらに進んで東京都品川区大井町所在の東京都立高等工業専門学校に入学、所定の課程を1回も滞りなく卒業したものであります。

2.就職・召集・敗戦
卒業後、横浜市港北区吉田町所在の安立電気株式会社吉田分工場(本社、東京都港区麻布広尾町)に奉職。分工場付近の早淵(?)寮から通勤。仙北屋さんを部長とする同会社計器部で作業していました。
昭和19年11月に召集され、宮城県石巻市の暁部隊に入隊。死線を超えて訓練終了。移送されて、四国愛媛県八幡付近に駐屯。専ら軍務にいそしんでいました。
ところが、昭和20年8月15日の終戦を迎え、敗戦軍人の汚名の下に、同年9月13日、哀れなる姿で、当時私が住んでいた北海道天塩国中川郡中川村市街地所在の名寄区裁判所中山出張所(登記所)に突然帰宅しました。軍の階級は伍長でした。

3.復職した会社が解散
 安立電気株式会社は、大東亜戦争たけなわのころは麻布の本社、吉田分工場、名古屋分工場をあわせ、約1万5千の従業員を擁する大会社でありました(中でも吉田分工場はその大半を占めていました)。
戦争終結とともに敗戦の余波を受け、会社は漸次衰微していきました。長義は昭和20年11月復帰を命ぜられ、ふたたび大志を抱いて上京したものの、会社は次第に整理のやむなきに至り、同23年ついに解散し、従業員も四散するに至りました。

4.会社の再建をめざす日々
 本社は第2会社を設立し、麻布に工場を置き、わずか四~五百人の従業員を雇用し、細々と誕生しました。長義等は同志と共に、当時の取締役で吉田工場の場長だった仙北屋さんを社長に仰ぎ、本当に気の合ったもの十五、六人が株主となり(長義もその1人)、安立電気会社の諸機械および安立なる名義をそのまま譲り受け、ここに安立計器株式会社を設立しました。事務所および工場を東京都目黒区東町48番地に置き、約五十人の従業員を雇用し、仙北屋社長、杉本副社長、篠原総務部長、浜中販売部長、栗田技術部長等を中心に、孜々営々として会社の発展に努めていました。
ところが25年5月ころ、栗田部長が家庭の事情から止む無く退社し、仙台市の自宅へ帰られたため、長義は技術部長の役を受けることになりました。彼は社会奉仕の精神に燃え、方々無線方面をも研究していました。
毎日(彼が終戦後復帰と共に移った)横浜市港北区南綱島町676番地の興亜寮(後に清和荘と改名)から東京まで通勤。ほとんど昼夜を分かたぬ勤務ぶりをしていました(そのことは、寮在住の主婦たちの言葉から分かります)。
 たまたま25年6月15日、朝鮮に勃発した動乱を期にして、全国の経済界は一時に好況を示し、彼の会社(計器会社)も漸次好況を呈すると同時に、彼の技術もますます必要の度が高まっていました。

5.過労から発病・入院
 ここで彼はついに業務の多忙に追われ、無理をした結果、6月ころから身体に異常を呈していたので、諸所の名医に診察を受けたものの、既往症の肋膜にばかり気をとられ、医師も真の病気を発見することができず、そのあいだに病魔は遠慮なく亢進をつづけていました。
25年11月になって、品川区平塚町の昭和医科大学付属病院泌尿器科主事医長篠原倫二氏から、「腎臓結核で、多少手遅れの疑いもあるが、手術で回復できる」との診断を受け、その準備をしていたのですが、なにぶん同病院に空室がないことから、ずるずると約1ヶ月間、会社に通勤しながら通院し、療養に努めるという状態でした。
 かろうじて12月28日、第101に号室に入院、ベッドの人となりました。知らせにより駆けつけた愚妻は、26年1月4日から専心看護にあたりました。

6.薬石効なく
 その後、一進一退の病状で、3月26日到着した私に対し、28日、篠原医師から「あー、泉さんのお父さんですか。よいところに来てくださいました。しかし、泉さんには困りました。実に申し訳ないことですが、私ども医者としては、あらゆる手段を尽くし、できるだけの治療をしたのですが、今となってはほんとうに如何とも致し方がない。この上は、時期を待つよりほかはないが、マー急なこともあるまいと思う」と申されました。
私はこの言葉を妻や本人に打ち明けることはできず、ひとり黙々として胸を押さえていたのですが、二日間ばかりは、ほとんど前後不覚のような気持ちでいました。そのあとは、あの病人の顔や身体がなんとなく尊いものの存在のように思われ、ことのほか哀愁の念が深まりました。
妻と共に寝食を忘れて看護をつくしましたが、日に日に身体の衰弱が高まり、また本人も相部屋より個室のほうがよいというので、第106号の個室に移り(4月3日午後4時半ころ)、さらにていねいな看護を続けましたが、なんら効なく、ついに(昭和26年4月)5日午後1時20分、私ら両親と兄長嘉と病院の医師および看護婦に見守られ、最後の息を引き取りました。ついになんの遺言もしないまま瞑目しました。

7.3回目の死線、超えられず
 彼は以前12歳のころ、銃剣術の稽古に熱中し、選手となった結果、ついに肋膜炎を患い、7ヶ月間病床につきました。ずっと続けて往診してくださった佐竹医師の「薬石効有り」、なんとか回復することができました。これが第1回の「死線を超えて」です。
 軍人として、さらに第2回目の死線を超えたのですが、今回の第3回目はついに越えることができず、そのまま往生してしまったのです。
 彼は、剣道初段の免状も持っていました。

<追記>
一周忌勤行
 昭和27年3月5日(家内上京の都合により、1ヶ月繰り上げ)快晴。



「死亡者・長義の来歴」原本

2010年11月16日火曜日

兄・姉・弟のこと

兄、タケヨシ[長嘉]
兄の思い出
兄は、学生時代からのカナモジカイ会員でした。カナモジカイ会長伊藤忠兵衛氏の意向で、富山地方鉄道の駅名をカナガキにする企画に参加したことがあります。

カナモジカイ青年部の仲間が東京の銀座通りでカナモジ運動の街頭宣伝をやったこともあります。わたしは金魚のウンコみたいにくっついていって、ウロウロしていました。まだ「銀座の柳」があり、夜店が並んでいたころの話です。

わたしにとって兄の存在は、時には父親の代理・後見人であり、時には人生の先輩・師匠でもありました。わたしが帰国後、無一文の身でいきなり「富山で書店を開業したい」といいだしたときは、雑誌の仕入れ先を紹介するなど、親身になって世話してくれました。


兄は、わかいころから俳句をやっていました。1998年、長男の妻公美さんの協力で句集「泉たけよし句集(粗案)」をつくりました。そのマエガキで、こう述べています。
「俳句暦は、決して短いものではない…教えを受けた先生は、上林白草居(草主宰)、富安風生(若葉主宰)、清崎敏郎(若葉主宰)、有働亨(馬酔木同人)の方々…時代的には、昭和11年から平成5年頃まで…結社誌などに掲載された句を、以下、年代別に拾ってみる」

その開巻第2句目に、つぎの1句がありました。
 弟の上京の日の春の雪  (注)1937(昭和12)年春、受験のためオキナガ上京。
家族関係の句を、もう1句ご紹介します。
 はばからず妻のあとつく五月かな No. 265 (注)父とよく似た愛妻家でした。2003(平成15)年3月10日、米寿を目前にして亡くなりました。


泉長嘉 プロフィール (この項、主に長女るり子さんの資料により作成)
1915(大正4)7月15日、旭川区(現旭川市)で生まれる。
旧制旭川中学校(現旭川東高校)を経て、1937(昭和12)年、中央大学法学部を卒業。
商工省(元通商産業省、現経済産業省)に就職。
戦争末期、軍属として香港に派遣され、1945年、敗戦により抑留される。
1946(昭和21)年、帰国。商工省繊維局紙業課に復職。
1947(昭和22)年、翁ハル(翁久太郎の妹)と結婚。
1952(昭和27)年、長男進誕生。
1954(昭和29)年、長女るり子誕生。
1962(昭和37)年、通商産業省中小企業庁勤務。
1970(昭和45)年、(課長職)退職。小規模企業共済事業団に就職。営業部長として、全国組織を固めるため東奔西走。
1973(昭和48)年、監事に就任。
1985(昭和60)年、小規模企業共済事業団を退職。
 秋の叙勲で勲四等瑞宝章を受章。

趣味 水墨画(画号、墨泉)。
   俳句(俳号、泉たけよし)。社団法人俳人協会会員。『馬酔木』に寄稿。





姉、エイコ[栄子]


姉の思い出
姉、栄子は、4人きょうだいの中で、ただ1人女の子として生まれ育ちました。まだまだ男女差別のきびしい時代でしたから、それだけ苦労もおおかったかと思います。わたしにとって、心のやさしい姉でした。

道庁立旭川高等女学校を卒業したあと、市内の百貨店に勤務。女性が職場に立つことがめずらしく、「職業婦人」というコトバがはやりはじめた時代でした。
地方公務員片桐正男氏と結婚。3人の男子の母となりました。
1971(昭和46)年3月29日に亡くなりました。






弟、ナガヨシ[長義]
弟の思い出
弟、長義は、東京都立高等工業専門学校で電気工学を学び、応召の時も兵科は通信兵でした。乗るはずの飛行機がなくなったため、船舶兵に転科。1945年2月、わたしと信子が北海道へわたる途中、松島湾まで面会にいったところ、弟は「毎日小船に乗って敵前逆上陸の演習をしている」といっていました。「大日本帝国敗戦」まで半年のことです。

戦後の弱電ブームで活躍が期待され、婚約者もきまっていたのですが、病にたおれ、1951(昭和26)年4月5日、29歳の若さでなくなりました。4人きょうだいの中でもっとも心やさしい好青年でした。











2010年11月9日火曜日

父母の思い出

旭川の家
わたしは1920(大正9)年2月25日、泉家の次男として生まれました。父長蔵は裁判所の書記。母ヤイは専業主婦。旭川市7条16丁目の自宅に、父母と兄・姉・弟と一家6人が住んでいました。たしか西どなりのお宅が鋳物師さんで、ニワトリも飼っていました。東どなりは下宿屋さんで、中学校美術科のU先生が住んでおられました。また町内の一角に、「栃木商店」という文房具屋さんがありました。旭中同期の栃木義正兄の実家です。






父、泉長蔵
父の思い出
まだ小学校入学まえ、役所まで父のベントウをとどけたことがあります。通用口からはいったところで、職員のひとりに「お父さんの名前は?」ときかれ、「チョーゾーです」とこたえてしまいました。いつも母親から「じぶんの名前はオキナガ」、「父親の名前はチョーゾー」と教えられていたからです。

父は毎年、春はワラビとり、秋はブドウがりに連れて行ってくれました。姉は留守番のこともありましたが、男の子3人はいつも全員参加でした。山ブドウを摘んで家に帰ってくると、こんどは母も姉もみんな総動員でブドウ酒づくりにとりくみました。ブドウの実を1粒ずつむしりとり、カメにいれ、焼酎をくわえて発酵させました。

富山~東京~旭川
富山県立山町で農家の長男だった父が、いつ・どうして北海道旭川に移り住むようになったのか、くわしいことはわかりません。まわりから聞いた話では、父の少年時代に親が知人の連帯保証人となったことから、おおきな借金をかかえこみ、田畑を手ばなすはめになったのが原因のようです。

のこされた田んぼを親類に耕作してもらい、上京して真木男爵家に書生として住みこませていただきました。日本山岳会会長をつとめた真木有恒男爵のお邸です。

そのご、別府弁護士を頼って旭川へ移住。やがて旭川地方裁判所の雇員。ついで試験に合格して、ようやく正式に書記として任用されました。

父は、3人の息子たちをつぎつぎ東京の学校で勉強させるため、身を粉にしてはたらきました。裁判所の予審部門に勤務したのも、出張がおおく、比較的収入がおおかったからで、ナリフリかまわず金をかせぎ、息子たちへの仕送りにつぎこんだわけです。
裁判所の書記を退任したあとも、上富良野の登記所などに勤務していました。

「先祖代々の土地」
戦後、父は北海道から引きあげ、富山へもどりました。農地解放令の施行で、不在地主と認定されれば、わずかに残っていた「先祖代々の土地」を手放さねばならないことになる。なにより、そのことが心配だったようです。

この件は、もともと親類同士のことでもあり、不在地主ではないという解釈で、なんとか話がおさまったようです。結局は、父の死後兄が相続した段階で、耕作者に売りわたすという形で幕がおりました。東京にいた兄が、わたしと相談したうえでの決断です。時代のながれですから、墓の中の父もゆるしてくれると思います。

晩年の父
富山へもどってきた父母は、わたしどものところで数年間同居したあと、妹の中山テイさん (市内小泉町) 方で数年、さらに立山町六郎谷の翁久太郎さん宅の留守番役として数年すごしました。(六郎谷の翁家は、兄長嘉の妻ハルさんの実家、また翁久允さんの本家です)
そのあと、東京の兄のところ(小平市)へ移転しました。

4人の息子や娘たちを育てるために一生はたらきつづけた父ですが、退職後もできるかぎり自立の道をさぐっていました。わたしどもと同居していたときも、「わかいものの生活をじゃましないように」と気をつかっていました。

六郎谷の翁久太郎さん宅に留守番役として住んでいたときは、姻戚同士ながら、きちんと契約書をかわしていました。わたしは偶然その文書を見かけただけで、内容までチェックしたわけではありませんが、「キチョウメンな人だったな」とひそかに感心した記憶があります。

浄土真宗の門徒で、富山にいたころは、散歩がてら別院まで説教を聴きに行くのを楽しみにしていました。たいていは、中山テイ叔母といっしょでした、
報恩講の時季など、上市町浄徳寺佐々住職さんのお供をして、あちこちまわっていたこともあります。

写真は、退職後富山へもどり、72歳で立山に登ったときのもの。夏休み時期で、たくさんの人が来ていましたが、いちばん高齢者の部類だったようです。

本籍地は、富山県中新川郡立山町沢端57番地。住所は東京~旭川~上富良野~富山~東京と変更しましたが、本籍地だけは移そうとしませんでした。
1889(明治22)年1月15日、父長三郎と母ヤイの長男として生まれ、1969(昭和44)年12月10日、81歳で亡くなりました。先祖代々の墓に眠っています。






母、泉ヤイ
母の思い出
母ヤイは、1896(明治29)年、立山町沢新、村崎家の長女として生まれました。戸籍簿にも「ヤイ」となっています。ヤエ[八重]の方言かと思われます。
父の母の名も「ヤイ」、妹の名は「テイ」、兄の妻の名は「ハル」。女性の名前は、カタカナ表記が流行していたのかもしれません。

母は小学校を出ただけで、無学の女性でした。母からのてがみは、いつもひらがなばかり。ところどころに漢字がまじっているだけでした。

父も母も教育には熱心でしたが、「勉強しなさい」といわれた記憶がありません。わたしが夜おそくまで机に向かっていると、母から「はやく寝なさいよ」といわれました。親バカというか、なにがあっても最後の最後までこどもを信じきっているようすでした。

母と娘の女同士
こどもが4人もいて、たいへんにぎやかな家庭でしたが、男の子3人がつぎつぎ東京へ出て行ってしまったので、母はしだいにさびしい思いをしたことと思います。ただ1人姉栄子だけ北海道にのこりました。ご主人が地方公務員なので転勤することはありましたが、その範囲は道内にかぎられていました。出産や育児などで、母と娘の女同士、相談したり、手伝いに出かけたりしていたようです。

母は、7~8歳年上の父にベッタリよりかかって生きていました。父のほうも、心臓弁膜症という持病をかかえた母を、だいじにかばっていました。こどもの目から見て、仲のいい夫婦でした。母は1964(昭和39)年12月23日、68歳で亡くなりました。

2010年10月26日火曜日

イキザマの記録

ブログ「いたち川散歩」をはじめて3ヶ月。まだまだ半人前の試運転状態がつづいています。それでもよくばって、こんどはじぶんの90年間のアユミ・イキザマを記録するシリーズを思いたちました。タイトルを「七ころび、八おき」、サブタイトルを「わたしのリレキ書」としました。

 「七ころび、八おき」というと、なにか「不撓不屈」のヒーローを気どっているようにきこえるかもしれませんが、そういう意味ではありません。「何回も失敗しましたが、おかげさまで、毎回もういちど起きあがることができました」という気持ちをこめて、このタイトルにしました。

イキル[生]とは、イキ[息]をすることだと思います。イキは空気の流れ。また、雰囲気です。イキは、時間・時代や場所のちがいで、「微妙に」あるいは「はげしく」変化します。昼と夜、夏と冬、平時と戦時などで、おおきく変化します。

いまは、日本人の平均年齢が80歳をこえました。それだけ日本社会の空気=イキが変化し、日本人のイキの仕方=イキザマも変化してきたといえるかもしれません。

わたしがイキてきた時代は、大正~昭和~平成の3代、90年間。空間でいえば、北海道旭川~東京~中国天津~張家口。やがて、ふりだしにもどって富山。いろんな時期、いろんな場面で、いろんなイキをすったりはいたりしてきました。

そのイキの仕方=イキザマを記録としてのこすことが、このシリーズの目的です。資料に基づいて、できるだけ具体的な事実だけを報告するように心がけますが、それでもじぶんに都合の悪いことは報告をサボるかもしれません。どこまで正直になれるか、あまり自信がありません。





「行為と妄想」梅棹忠夫



このシリーズを思いたった直接の動機になったのが、梅棹さんのこの本です。「行為と妄想」というタイトルは抽象的で、サブタイトル「わたしの履歴書」のほうが具体的でわかりやすいことはたしかです。しかし「妄想が先行していたからこそ、行為が成立する…」という観察眼に敬服し、見習いたいと思っています。

梅棹さんとは、直接の面識がありませんが、イキていた年代がまったくおなじ1920年生まれ。1945年「大日本帝国敗戦」当時、梅棹さんは張家口西北研究所に、わたしは張家口鉄路局に勤務していました。

蒙彊地区在留邦人が、戦場となった張家口から脱出した当時の状況についても、この本の中でかなりくわしく、なまなましく記録されています。

こんどのシリーズでは、「敗戦前後の張家口」や「八路軍との接触」などの場面で、いやおうなしに当時のイキザマをさらけだすことになるかと思います。



般若一郎色紙「バカ面」




これは、わたしが尊敬する画家、般若一郎さんからいただいた色紙です。
般若さんは、1910(明治43)年11月26日生まれ。1934年、東京美術学校彫塑科卒業。1938年応召。北支へ。翌年内地帰還、解除。1941年4月、富山県立富山商業学校教諭。以後も再三応召・除隊。1945年、最終的に召集解除。富山商業学校に復職。1948年9月、退職。

富山商業高校の職員室で毎日般若さんと顔をあわせていたのは、1948年4月から8月まで、ほんの数ヶ月。ちょうど高校統廃合の直前でもあり、教師ひとりひとりが去就をせまられていました。般若さんは、「教員として勤務しながらの片手間では、ほんとうに描きたい絵が描けない」といって、退職・独立の道をえらばれました。

 わたし自身はというと、それまで「宮仕えはイヤ」といって浪人していたところに、「中国語をやらせてもらえる」と聞いて、たちまち変心、やる気満々になっていました。

ところが現実は、その年9月、富山商業高校が富山南部高校に統合。翌年の1949年度からは高校の中国語科が廃止。わたしは中学校にまわって、専攻外の英語科を担当することになりました。勉強不足のため、半年か一年のあいだに世間がどう変化するか、ぜんぜん先が見えていなかったわけです。

ヒトはイキをしないと、イキルことができません。まわりの空気=イキに対してイキ苦しさを感じるようになった場合、どんな「イキの仕方=イキザマ」をえらぶか、決断をせまられます。
①まわりの空気にあわせて、「イキの仕方=イキザマ」を変える。
②まわりの空気を変える。自立、転職、移住など。
③イキをすることを止める。引退、自殺など。

 「バカ面をさらせ…」は、わたしにとって「座右の銘」。般若さんのシッタ・ゲキレイをうけながら、このシリーズにとりくみます。どうぞ、よろしく。